「C†C」

http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20051104に対して返事が来ています。
http://catfist.s115.xrea.com/wiki/wiki.cgi?page=Diary%2F2005%2D11%2D06

意思決定の支配権をプレイヤーから主人公に移し変えるプロセスについて高く評価している

すごく簡単に言うと、それをやってしまったらアウト、ということを凄く上手にこなしてしまってる、という話を最初からしています。凄く上手くやったから言い訳がつかない。やり方がもっと下手だったら部分的に評価するのも可能だけれども、粗雑に見えながら全体が連結してるから出来ない。
ちなみにグレッグ=イーガン『順列都市』をネタ元として『C†C』解釈するなら、先日から再三リンクしている群青学園などを巡る法的な問題へのツッコミも含めて全部を綺麗に解釈できますが、それをやると本格的に悪趣味な内容になる。ベタに追求していくほどシャレで済まされなくなります。切り口をずらせば誤魔化せるし無視できるということはありません。トラブルが別のとこに行くだけです。それを見ないことにするなら、「一人を助けると別の一人は助けられない」などと考えるのも止めることです。それは単に自分の目の前に示されたから気になるだけのこと。実際、「C†C」のシナリオで人がいくら死んだって、よほど感受性が強い人じゃなければ「かわいそう」つって泣いたりはしません。「Kanon」で他のヒロインの去り際が切なく見えるのはそういう引っ掛かる書き方をしてるからです。「C†C」は人の死について、そういう後味の悪い書き方をしなかったから「一人を助けると別の一人は…」などと言わなくてよかった。
後のこと。
前にも書いたけど、「C†C」の世界設定を巡る「議論」は、基本的には結論が出ません。情報はシナリオ内で相互矛盾するようになっている。というか、「一般的な学園物ノベルエロゲーに見えるが、実はそうではない」からスタートして、「○○に見せかけていたが、実は○○ではない」を延々と繰り返すだけだから。そんでプレイヤーを喜ばす部分てのが常に「○○に見せかけて」の「○○」の部分だから、プレイヤーは常に裏切られ続ける。ここんところが同じくプレイヤーの予想を裏切る『嬌烙の館』との違いね。『嬌烙の館』はまあ、パッケージで嘘はついてない。「必然性のあるエロ!」うん、まあそうだね、となる。『嬌烙の館』は「ゲームつったらまあこうだろう」という既存のゲーム的なモノの体系、ゲームと聞いて思い浮かべる幻想のほうを叩きに行くのに対し、「C†C」は本当にゲームそのものを叩きにかかる。で、ゲームつっても、結局はゲームも小説も根っこは同じことだから、非ゲームであるならば非小説に、非物語に、非ノベルゲームになるしかない。要するに、どこをとっても「dis-」しかない。「これはdis-腐り姫である」とかそーゆーカンジで。それを好みで例外事項を作りつつ体系化してくと、そのうち例外事項で身動き取れなくなります。天動説で惑星の軌道計算をしてるような感じですね。
だから、シナリオ内に反論の根拠はいくらでもあるけど、その先は構築できないということになります。まず世界設定ありきで考えるとこのトラップに引っ掛かる。そこまで考えた上で、ではそのトラップを回避するためにどうすればいいかを考えないと、「C†C」を評価するところまで行かない。
あと、主人公の内面、動機なんてのは、この徹頭徹尾主人公の主観で構成されている話においては最も慎重に扱うべき素材です。どこまで本当かわかりゃしない。
というところまで書いといて、詳細は後日。