続き。というか脱線。時間が無いのでフランクに。

http://catfist.s115.xrea.com/wiki/wiki.cgi?page=Diary%2F2005%2D10%2D22

 tdaidoujiさんご指摘の通り、マルチシナリオゲームにおいて「多様な可能性への欲望」がかなり根っこに近いモチベーションであるとしても、普通は一字一句逃さずシナリオを読み切ることは重要視されません。作り手の側はそれをさせようとするわけですけどね。

んーと、
http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20051021#1129836246
を読めば判るとおり、「同じキャラクターと状況設定とルールを保有するひとつの系の中で、多様な物語可能性を「経験」することへの欲望」は作品の形態にプレイヤーが対応した行動を事後的に振り返った結果として見出されたもので、つまりは費用対効果、かけた労力/コストに対する見返りのバランスを判断して決定される行動パターンの範疇に収まる。
要するにマルチシナリオだから全キャラプレイする、マルチシナリオじゃなければ「同じキャラクターと状況設定とルールを保有するひとつの系の中で、多様な物語可能性を「経験」することへの欲望」は存在しない。よって、指摘の段は「同じキャラクターと状況設定とルールを保有するひとつの系の中で、多様な物語可能性を「経験」することへの欲望」を『C†C』というマルチシナリオから外れた作品に適用しようとした俺のミス。

「色んな女の子とイチャイチャしたい!」という欲望

については、それは昔のナンパゲー、『きゃんバニ』や『同級生』みたいので解決する。エロゲーのノベル形式隆盛までの流れとして、ナンパな関係じゃなく純愛な関係になりたい、恋愛よりも女の子の抱えるストーリーが読みたい、女の子と結ばれるのはどうでもいいからストーリーが読みたい、と欲望の方向性が徐々にズレていったという経緯がある。『C†C』は最後のあたりにフィットしてると想像するけれど、違うの?

ループシステムは一般的なマルチシナリオに対するアンチテーゼであったはずなんですよ。

前述の通り、昔のナンパゲーで解決する。あるいは『鬼哭街』のように完全一本道にすれば面倒はない。マルチシナリオ方式は法律で守らなければならないよう決められてるわけじゃないし、エロゲーの外を見ればそれ以外の道はいくらでもある。あえて見せかけのマルチシナリオを採用してしまうのは、アンチテーゼというよりは体制維持のための見かけ上の反発になってないか。55年体制における万年反対野党の社会党のような。それでマルチシナリオ方式が維持されることでエロゲーシナリオの発展が見込めるなら話もわかるが、マルチシナリオの生み出す矛盾に耐えられないのでしょ。

tdaidoujiさんの言う「正解への欲望」が掴みきれていない気がするんですが……。それはRPGでダンジョンの出口を求める欲望、AVGで「ゲームクリアに結び付く選択肢」を求める欲望と解していいもんでしょうか。

それでオッケーです。

極めて根源的なレベルにおいてはそれはオマケであるはずです。感動的なEDや伝説の木の下での告白やラブラブえっちが最優先目標のように感じられたら、それは錯視ではないでしょうか。

その通りですけど、現実に感動的なEDを最優先目標にしてるプレイヤーと、その需要に応えるゲームが存在しますし。ノベルゲームと呼ばれる一群は、その傾向が強いのは否定できない。ついでに言えば、通常のゲームと比較すれば5人ばかりのヒロインの5本のシナリオを全部読みました、なんてのをゲーム攻略コンプリートと言ったらエロゲーやらないゲーマーからは「そんなんゲームの攻略とは言えない」と反発くらうんじゃないかな。リーフビジュアルノベルを難易度高いと言われるのは正直なところ違和感がある。

様々な展開を全て読み込もうという全シナリオ制覇の「やり込み」と、ヒロインという正解を目指すミニマムな「意思決定」
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050729

は、その下でLVN『雫』の取説やヒントメッセージの示唆を引用しているところからも判るとおり、あくまでカギカッコ付きの「やり込み」であり「意思決定」です。

顔のない月』とか『永遠のアセリア』とか、なんか変な例示ばっかりだけどとにかくヤりまくってると死んだり鬼畜ルートに行ったりするゲームは無視できない数存在します。

アセリアやってないので顔月について。Hできる女性は複数いるしシナリオも分岐するけど、トゥルーへ向かう以外のヒロインのシナリオは半ば「脱線」的な扱いだよね。鈴菜が完全メインで。えーつまりですね、『河原崎家』『野々村病院』方式、基本となる解くべき「謎」あるいは「事件」が一つで、その謎を暴くという目標設定がある場合、マルチシナリオで設定が変化するわけではなく、分岐したシナリオは適当にバッドエンドになったり関係ない話になったりするわけです。そうしたシナリオ構成の場合、今度はメインヒロイン以外はH担当要員で終わってしまったり、結ばれるヒロインが入れ替わってもシナリオの骨子は変化しないという現象が発生します。どのヒロインを選んでも同じ展開だったり。『二重影』はヒロイン入れ替わるだけだった。そうなると展開の幅が狭いという不満が出てくる。
どんな形にしても、どこかで問題が発生するんです。

全ヒロインを攻略しないとトゥルールートに入れないようにするなどして、「多様な可能性への欲望」と「正解への欲望」の目的を合一させ、プレイヤーのモチベーションを強化している作品も多いですね。

そういう形にすると

「じゃあヒロインAとイチャイチャしてるときヒロインBはどうしてんの?」という矛盾というか、誤謬が発生するんですよね

がまた復活してきます。ヒロインAとヒロインBはトゥルーシナリオのための踏み台ですか。

主人公の意思を希釈することでマルチシナリオの誤謬を回避している、と思うわけです。

ユニークな主人公が別のとこで遊んでる間にユニークな冬子は死にますけどね。まあ1週間の最後にほぼ必ず全滅するんだし早いか遅いかの差ですけど、そういう「どうせ死ぬんだし」設定を用意することで「プレイヤーの選択により死ぬ冬子」への罪の意識を希釈しているという解釈は無しですか。
 
あのね、欠如は必ず発生します。喪失も発生する。それが物語ってものだから。
http://www.hatena.ne.jp/1126366449#a27
って書いた。
その死を記号として処理するのか死として受け入れるのかって話。まあ、どっちでもいいんだけどさ。

なお、Kanon以降のノベル系ゲームはヒロインを自らの手で殺すことを主題とした物語であるとも言えます。
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050911#p4

どちらかを選ぶとどちらかを選べない、という話じゃないんだよ。
物語とは弔いである。何がしかの死を受け入れることである。選ぼうと選ぶまいと、死はそこにある。
誰かを選んだから別の誰かの死が発生するんじゃない。選んでも選んだ人を救ったことにはならない。
ただ、自分が自分であるためにヒロインを殺すの。
『C†C』の特長として、プレイヤーの手でヒロインを殺害することが徹底して避けられるというのがある。一方で主人公は幼少時にマジで殺人行為を働いていてヤバイ人として隔離施設に入れられているんだけど、シナリオ中では主人公はヒロインを殺さない。プレイヤーのあずかり知らぬところでのみ、主人公は殺人行為におよぶとされている。
http://kaoriha.org/nikki0311.htmで指摘される法を巡る現実世界との違いも、「実際に殺人を犯していて、にも関わらず罪に問われないでいて、にも関わらず罪と関係なく<悪い奴>と外部から認定されている」という宙ぶらりんな状態を作るために用意されている。
このことは何を意味するのか。
ちなみに『月姫』は「わたしを殺した責任、取ってもらうからね」がキャッチコピーで冒頭でメインヒロインを切り刻むシーンがウリ。『ひぐらしのなく頃に』が男性主人公とヒロインとの殺し合いをメインに据えていることは言うまでもない。殺人者の殺人の瞬間を描写する一人称がターニングポイントだ。冬に出るだろう沙都子編では沙都子がお得意のトラップを駆使して罪の意識を感じることもなく、「ゲーム感覚で人を殺す」物語となるだろう。
では『C†C』は?
まあ頑張ってください。