「ノベルゲームの枠組みを変えるノベルゲーム。」自転車創業:それなりにネタバレ

 
わりと問答無用にネタバレしますので、ご容赦を。
 
 
とりあえず思ったのは、ゲームをゲーム画面の外側に拡張してくという発想は、スマホのGPSの位置情報や軸センサの筐体の姿勢情報等々を使った、機械の外側にゲームのプレイスペースを拡張してるタイプのゲームにインスパイアされて作ったんじゃないかな、というものでした。その意味で、このゲームは今だから作られたのだろうと思います。
一方で、それほどに現時点ならではのゲームでありながら、シナリオ内でプレイヤーについてメタ的に言及してるあたりのシナリオについて、少なからぬ違和感を感じました。いったい、そのような呼びかけの対象となるような「プレイヤー」を現在の「ノベルゲームの枠組み」に求めることに、どれだけ妥当性があるのだろうかと。
 
ゲームというのは、もちろん常にプレイヤーが存在します。また、どんな形であれ個人がゲームとして楽しんでいるのであれば、それは、その個人においてプレイヤーとゲームの関係が成立していると言えます。
ですが、本作のシナリオで使われるようなプレイヤーを指名した場合の「プレイヤー」というのは、そうした個々のプレイヤーを指すわけではありません。あくまでシナリオライターが想定する概念的な意味でのプレイヤー、まあ、サブカルっぽく言えば「大文字のプレイヤー」というのが想定され、それを名指してるのであって、「大文字のプレイヤー」は個々のプレイヤーそれぞれと一致するというよりは、地域や時代や文化区分など諸々の条件を受けて個々のプレイヤーの振る舞いや在り方が総体として語りうるほどにまとまったものとならない限りは、成立しえない。
 
ゲームの側から見た「ノベルゲーム」と、小説(シナリオ)の側から見た「ノベルゲーム」では、見えているものが随分と違います。(本当はもう少し細かく分けたいが今回は二つに割愛)
 
まず、作り手なりプレイヤーなりが、AVGなりRPGなり育成ゲームなりから、次第にインタラクティビティを減じていくノベルゲームを見たとき、そこに見いだすゲーム性というのは、作り手とプレイヤーの意識の持ち方の側に大きく寄っていると言えます。これは、はっきりと時代性があります。この先は次第に消えていくもの、個々の意識としてはともかく、まとまった「大文字のプレイヤー」にはなりえないほど散逸していく運命のものです。
 
つぎに、作り手なり読者なりが、小説の側からノベルゲームを見たとき、ノベルゲームの背後に透けて見えるAVGやRPG、その他さまざまの「小説にはない何か」のシステムを幻視することでゲーム性を見いだします。
思い起こして欲しいのですが、例えばラノベやアニメでエロゲやギャルゲが描かれるとき、そこにあるのは選択肢が3個か4個しかない、殆ど読むだけのエロゲギャルゲではなく、好感度を高めてフラグが立つまでにそれなりに多くの選択肢がある、つまり難易度があるようなタイプの、昔のエロゲやギャルゲです。小説から見た「未知の領域」を、ブラックボックスの奥底に秘められたゲーム性という神秘を、その神秘にアクセスすることで得られる小説表現の拡張を求めているわけです。
そのように見た場合、小説の読者から見たノベルゲームのゲーム性というのは、最初に述べたようなゲームプレイヤーの意識の在り方としてのゲーム性の残響を介在して、その先(というより過去)を拡大して見いだしている。そのとき、残響としてのゲーム性と対の存在として、個々のプレイヤーから遊離した形で「大文字のプレイヤー」が求められます。
 
もちろん、今現在のプレイヤー/読者は、別にどちらか片方の立場でのみノベルゲームをプレイするわけではなく、しばしば都合良く、両方の視点を駆使してノベルゲームをプレイして楽しみます。上記のそれは言語化することで、どちらか片方の立場をとらざるをえないという話です。時代が下るにつれ、後者の要素が強まるでしょうが。

そして、本作の「大文字のプレイヤー」は、(ビデオゲームとしては充分なほど試行錯誤のパズル要素が詰まった、いわゆるゲームらしいゲームであるのもかかわらず!)小説の側から見たノベルゲームのゲーム性です。そこには個々のプレイヤーの個々のモチベーションや意識の在り方は介在していません。というより、シナリオライターが名指した時点で、生きた、プレイングしているプレイヤーは、その立場から排除されます。ゲームシステムにあるゲーム性という神秘にスポットがあてられている。「セカンドノベル」でも同じ誤謬をやっていました。ようするに作り手の傲慢という話になるのですが、個々を排除してなお大枠として残っているほどの強固なプレイヤーのゲームプレイへの「意識」の総体を期待できるような現在の状況ではありません。だからこそノベルゲームは方向性を見失って全体としては迷走気味であるのだし、その迷走している現状を受けての「ノベルゲームの枠組みを変えるノベルゲーム。」というタイトル名であったろうと思うのですが。

そんなわけで、ゲームの「拡張」という現在進行形の事態を捉えたゲームデザインは古くささを装いながらも充分に現代的でプレイする価値があったにもかかわらず、「拡張」の背後にある(というよりノベルゲームの状況を目の当たりにしていれば嫌でも理解できているはずの)ゲームの「拡散」に対する朴念仁ぶりがいかんともしがたいという、残念な感想になりました。
 
 
 

  • 反応いただいたこと、その他に対する追記。さらに激しくネタバレ。

 

 

 

 
作り手が自覚的なのは明らかですが、同人ゲームなりブラウザゲームの他の例を思い起こすであっても、本作の内容で直接「あなた」を名指さない理由があまり思いつかないのです。知らないそぶりをして「協力」を要請する、というスタイルは、現実世界にあてはめてみれば、受け取ってばかりで返す気がない、となるわけで。つまり「あなた」をあとで(シナリオ的に)裏切る気が満々だから「あなた」と面と向かわない。
韜晦というかほのめかしというか、やや斜めにかまえた物言いに終始し、しばしばクライマックスにプレイヤーの想定を裏切りアンチテーゼ的な結末を用意するのは自転車創業のいつものシナリオといえばいえますが、それは、いってみれば時代に逆らって我が道をいく、昔ながらのAVGの伝統の路線の継承者であったスタイルであればこそ釣り合いがとれるものであって、今回の、ノスタルジックと挑発をダイレクトにテーマ化したような代物と合致するかといいますと、かなり自分勝手な言い分に成り下がったと言わざるを得ません。
プレイヤーは多様化していますし、一人のプレイヤーがひとつのスタイルのゲームに拘っているわけでもありません。プレイヤーは別にノベルゲームだけしかプレイしないなんてことはなく、RPGも格ゲーもMMOも音ゲーも、ソーシャルゲーも遊ぶし、ついでにいえばカードゲームもボードゲームもプレイ人口は増えている。さらにいえば、一人の人間はゲームを遊ぶ一方で映画も見るし小説も読む。
ことの本質は、たとえばAVGからノベルゲームへと、直線的な並びで理解しうるものだったゲーム作品が、並列になったこと。それによって、理解のあり方が、ゲームプレイのスタイルが、どこかで決定的に変質せざるをえなくなったこと。
今回の結末、いかにも「古い器から新しい器へ」と言いたげな仄めかしですが、それは作り手の側の事情であって、受け手の事情じゃありません。ネットのレビュアー・評論家は勘違いしているかもしれませんが。
あるいは「論点がぶれる」(https://twitter.com/susumi_hajime/status/274329044852555776)というも、自転車創業の今作が、ぶれるような場に自ら乗り込んで行って、場を引っ掻き回している態度に他ならないわけで、それを受けて建設的な議論が行われうるとは、到底思えません。
だいぶ厳しい言い方になりましたが、ご理解いただければと思います。