もにょもにょ

〈ゲームという表現〉が〈ゲームにしかできない〉ものを模索した末,〈プレイヤーの中で収束する物語〉として『シンフォニック=レイン』が奏でられた。これは,聴衆を必要とする交響曲
http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050821/p1

うん。まあ。その。
そーっすね。



えーと。

流れから抜け出していったものとして,同じ年に“Fate/stay night”が登場した。流れの中に踏みとどまったもののうち,正統を歩んだのが“CLANNAD”で,カウンターをあてたのが“symphonic rain”。こういうゲーム史上の整理でどうだろうか。

は、うにゅう、そうなっちゃうのかな、困るな、と。

以下、シンフォニックレインの大幅ネタバレです。
個人的には、シンフォニックレインのアドベンチャーパートは演奏パートとの組み合わせによって成立しているもの、言わば『ぷよぷよ』や『アイドルスターシーカー』のシナリオモードの寸劇の範疇に近いものだから、ノベル系ゲームのカウンターとしてそのまま取り上げると、後で禍根を残すように思う。
構成レベルで考えるなら、シナリオの「 da capo 」や「 al fine 」の差異より上位にアドベンチャーパートと演奏ゲームの二つの異なる表現形式の並置があるわけで。いや確かに演奏パートを自動モードでクリアしてしまうなら、それはBGMを聴いたりCGを眺めたりするのと大して変わらないのだけれど。
それにしても、だ。
たとえば、卒業演奏でフォーニの歌声が全ての人に聴こえたという描写は、演奏パートの創出する世界とシナリオが描く世界との交錯と見なせないか。もしシナリオの側がそのような出会いを肯定するのなら、そこから先は個々のプレイヤーの中に収束するのでなく、もっと大きな広がりを想定してもいい。演奏パートで競い合うのみならず、CDを聴き、カラオケでテノール合唱し、そうして音楽が無限に広がっていく先に、歌と一瞬なりとも溶け合った各ヒロインたちの物語が伝わり、拡散していく、そんな夢が語られうるのではないか。
あるいは、ノベル系ゲームとみなす場合、演奏曲の獲得は「エロの回収」と同じだ。ED曲の回収という目標によりプレイヤーのシナリオ攻略は合目的化される。どちらにせよ「プレイヤーの中で収束する」とはならない。どうしたって、ある種の外部ルールがプレイヤーとノベルとの関係を規定する。ノベルの文脈に無理にはめ込んだ場合『シンフォニック=レイン』は先祖がえりの扱いだろうと思う。
私としては「ノベルの表現力上昇の成果を別系列に効果的にフィードバックした作品」ていう言い方が好みです。