『ひぐらしのなく頃に』07th Expansion

その2。
以前、ツッコミを入れたid:tdaidouji:20050119記事からスタート。
「『ひぐらしのなく頃に』はゲームか?」では、

ゲームであるか否かを考える前に、まず「ゲームとは何か?」という定義をはっきりさせておく必要がある。

「ゲームが成立する条件」が存在しているのが「ゲームの内側か、外側か」という部分だ。

とスタートしながら、

参加者が自分で設定したルールに基づいて「これはゲームだ」と思えばゲームだし、同じように「ゲームではない」と思えばゲームではない。それまでの流儀に則った「ゲームの定義」という物は、参加者の前では何の意味も持たない。要するに「ゲームです」と言ったもん勝ちという事だ

という結論に導かれる。

これは「ひぐらしのなく頃に」製作者の紹介ページにおいてゲームであると紹介されている記述に対応してのものだ。

ここでお断りしたいのは、
本作品には俗に言う「選択肢」が登場しない点です。

ですから、あなたは小まめなセーブ&ロードから解放され、
フラグのオンオフ、現在のルートが誤りであるか否かを心配することなく
物語の顛末の最後の最後までゆっくりと楽しむことができます。

ですが、本作品はただの小説ではなく、やはりゲームです。

あなたは各シナリオごとに、物語中に残された謎を
心ゆくまで吟味することができます。

あなたはその謎を吟味するために、
電車の中での退屈な時間を推理に費やしたり、
本作品を楽しんだ仲間たちと論議を楽しんだり、
ネット上で独自見解を発表するサイトを探してみたり、
あるいは当サークルのHPで発表して反論を得たりして遊ぶことができます。
http://rena07.sakura.ne.jp/Soft/Prolog.htm

では、作り手が何故公式に上記のような「ゲーム宣言」を発したのか。

「そういう構成を取るだけなら、ゲームでなくても小説でできる」という意見も出てきそうなのですが、「ひぐらし」は(ノベル)ゲームゆえの没入感あってこそ、成り立っている気がしないでもないのです。
http://amanoudume.s41.xrea.com/cgi-bin/mt/archives/000266.html

この「ゲームゆえの没入感」は、「ひぐらしのなく頃に」がゲームであると指し示されたこと自体によってもたらされ、それこそが「ゲームではない」ビジュアル作品との最大の差異として働く。もちろん、この種の作品をプレイし慣れていれば、ビジュアルノベルという形式をゲーム的なものだとイメージしやすいこともある。
実際に「ひぐらし」をめぐって推理や考察を行っているところを見れば一目瞭然だけれども、そこではテキストの細部をそれこそ構造批評かよとツッコミ入れたくなるほどの手法で原テキストを分解し分析し、その意味するところを読み解くべく努力を投入してる。もちろん推理やゲーム攻略が批評行為であると言いたいわけじゃなく。「ゲーム宣言」から受け手はゲームプレイヤーとしての在り方を受け入れるよう要請され、それを受け入れた時点から一般的にイメージされる読者的態度からゲームのプレイヤーへと意識が切り替わり、通常ならば「レビュー」と称しつつ読書感想文ぐらいしか書かないであろう人たちが専門的批評を目指すかのような緻密さをもって「ゲーム攻略」にいそしむようになる。
そこまで至る人はプレイした全体数からすれば少数かもしれない。ただ、もう少し緩やかな受容態度の変化が「ゲーム宣言」を目にした大多数の人にもたらされているのではないか。

「読者」が「プレイヤー」へと変化する転換ポイントは、最初の事件が起こり悲劇が幕を開けるその時点だと言っても良いだろう。受け身ではないゲームへの積極的な参加は、選択肢が無いからこそ導かれる。

これは実は「ゲーム宣言」を目にしたから言える発言で、ただ読み物として読むだけなら、そもそも「選択肢がある/ない」などと考えない。*1「ゲーム宣言」が先行することで「選択肢がない」という言及が意味を持ち、「いつ、どこで選択を誤ったのだろう」というシナリオ内のサジェスチョンに直結するようになる。

面白ければそれで良い。ゲームである必要はない。
私は何も困りません。
製作者が芸術と思っていても、ゲームと思っていても
見る人遊ぶ人にとって、その区別は問題ではない。
http://d.hatena.ne.jp/kodamatsukimi/20050113#p2「ノベルゲームはゲームなのか」

製作者がどう思うかは問題ないかもしれないが、受け手の心構えが異なれば意味は変化する。ネットの文章を「ネタかマジか」と判断するのに「ネットは使う者の自己責任、受け手が判断しろ」と主張する人がいるが、そのように主張しておかなければならない程度には本気と冗談、嘘と真実は区別などできないし、ネット上に文章をあげる側にしても自分の文章が文脈に照らし合せて「ネタかマジか」など理解し区別できる人間はそう多くない。
冗談だと思えばその冗談の言葉の裏を読む。ゲームだと思うことで、一次元の文章を多層化された厚みのある情報として捉え、ゲームが展開される空間を見出す。だからこそ、それぞれの「○○し編」が同じ時間軸に全く異なる展開が繰り広げられるのに対し、幾つかの階層化と選別によって共通要素を見出し全ての情報を重ね合わせる事に違和感を感じない。*2

そして「ひぐらしのなく頃に」に限らず、Leaf/Key 作品を範としたノベルゲーム*3は基本的に受け手の「これはゲームである」という暗黙の受容態度によって成立してきた。それがほぼ崩れるのが2002年で、「ひぐらし」の1作目「鬼隠し編」が発表されたのが平成14年(2002年)夏コミなのと一致する。
 
続きます。

*1:普通に小説を読んでいても選択肢やフラグが見える、というエロゲージャンキーな人も多いのかもしれないが、とりあえず無視する。

*2:あるいは、多少なりとも違和感を感じる人により、時間がループしている、パラレルワールドである、などのプレイヤーを必要としないシナリオ間の統合手段が提案される。

*3:http://www.hajou.org/hakagix/あたりで言ってるらしい美少女ゲームの区分のことだと思えばいいと思います。俺は読んでないけど