「ゲームと地の文と選択肢」を巡って

http://d.hatena.ne.jp/pmoky/20050718#1121677599

選択肢を選ぶとき、プレイヤーは物語の外側に出るのか。

という話を、もう少しゴリゴリやった文章が昔にありました。
長いので隠します。
 
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040215bより。

Aを選ぶと岩陰の尻尾の主は子猫であり、Bを選ぶと白ライオンである。文中では特に明示はしなかったが、子猫と白ライオンは別物であると考えることにする。すると、上の文章はどのように解釈すればいいのだろうか?

ひとつの解釈はこうだ。選択肢の前では尻尾の主の正体は決まっていなかった。それは子猫でもあり得るし、白ライオンでもあり得る。主人公の選択によりその正体の決定が行われたのだ。

もうひとつの解釈はこうだ。選択肢の前の文章は複数の世界についての記述であり、一方の世界では尻尾の主は子猫であり、もう一方の世界では尻尾の主は白ライオンだった。両方の世界に紫音と玖音、そして主人公が存在する。読者(=プレイヤー)の選択により世界の決定が行われたのだ。
(中略)
物語と世界が一対一対応していないという考えは、主人公への感情移入の妨げにはなるだろう。途中までは似た行動をとる別人に同時に感情移入することはいかにして可能か?

…といったもの。

これだけ抜書きするのはアンフェアな気がするので、上の記事へのツッコミというか、批判としてあたしが当時に書いた、その後に恥ずかしくて削除した文章を上げておきます。


>読者(=プレイヤー)の選択により 世界の決定が行われた〜物語と世界が一対一対応していない
>という考えは、主人公への感情移入の妨げにはなるだろう。途中までは似た行動をとる別人に同
>時に感情移入することはいかにして可能か?

回答。一般的な人間は<同時に>読まない。というか、普通は二つの文章を同時になんて読めない。単に目の前の文章を読み、必要に応じて目の前の文章に感情移入するだけのこと。それが「同時」だと解釈するのは双方の文を読み、後から思考して統合させた結果。上記は机上の空論。


>「遡って世界のあり方を改変する」

ファンタジーの読みすぎ、もしくはゲームのやりすぎ。「世界のあり方」なんてものが小説のどこに書いてあるのか。漱石だろうとデュマだろうと、彼らは物理法則も世界史も小説の中に記述しない。「人間とは手が2本、足が2本……」などといちいち説明する小説が世間に溢れかえっているとでも思っているのか。
彼らは必要に応じて現実を援用し、現実から変えたい部分にさしかかるとおもむろに文章によって都合よく現実を改変するのだ。フィクションとは通常そのように書かれる。それとも、過去のあらゆる物語に対してご都合主義のレッテルを貼るのか。
「書かれたこと=読むこと」が1対1なのが通常の小説ではあるが、「作者の書いたこと=読者の読んだこと」ではないからといって途端に「世界のあり方」を規定する必要もあるまい。「現時点で読んだこと」に忠実に読めば、それで済むだけのこと。
抽象的な思考に陥る前に「実際にはどのような順序で読むか」を優先して考慮せよ。「読み手の都合に合わせる」のをご都合主義と呼ぶのだろうか。

うわあキッツイなヲイ。次の日の日記。


下記が説明不足だったので補足。

まず大前提として、ビジュアルノベル/ノベルゲーム/ギャルゲーの「分岐」「選択」について、「分岐」と「選択」は全く別の概念。
確かに、分岐するためには必ず選択しなければならないし、選択の結果に応じた分岐が求められなければならない関係であり、それらは現実として不可分ではあるが、それでもなお分岐と選択が担う役割は全く異なる。
また、物語とゲームは相互に異なる次元で働く。
以下、大雑把にノベル/物語として見た場合とゲームの領域を見分けてみる。


物語において「選択」は存在しない。「主人公の選択」というのは「主人公が選択した」という記述であって、主人公が平成16年2月23日午後20時30分というリアルタイムで意志を決定したということにはならない。
少なくとも従来のフィクション観では、物語の中の登場人物が「選択」をなした、という概念を解釈することはできない。「選択=意志決定」は<人間>が現在の時制において行うもの。すなわち「それが物語である以上、主人公の選択は存在してはいけない」のである。
よって、ノベルゲームにおける「主人公の決定」とは、「主人公が意志を決定したという物語の一場面の記述をプレイヤーが選択した」と見るのが正しい。そして「プレイヤーが完全に小説を読むようにしてノベルゲームを受け取っている」と仮定するならば、分岐のうちどちらかを選択するという行為は異なる2冊の本のうちどちらかを選ぶという行為と根本的に変らない。そして、選択の前の文章は、どちらの本を読むかという行動決定のために集めた事前情報とほぼ等価である。ここで2冊の異なる本の相互には直接的なつながりはない。2冊を間接的に関連付けるのは事前情報たる選択前の文章であるが、片方の1冊を選択した後においては事前情報はその1冊を選択したという結果とのみ因果関係を結ぶ。
まとめると、物語を読むという意識において、分岐というのは形而下の問題、実際に起こってしまった問題、現実レベルの問題、物語(現実ではない)の中に混入してはならない問題である。そこに「実際にはそのとき選ばなかったもう1冊」の入る余地はない。次の機会にその1冊を読むことはあっても、その経験/文章は新たな事前情報と新たな因果関係を結ぶ。その事前情報が全く同じであっても、現実では時間経過をはじめとして全てが変化しているからである。

次にゲームの側であるが、まず上記の逆。現実から時間経過を切り取り、その中で「意志決定」することが可能という条件が最初から設定されている。ゲームにおいては、現実の場所や時間経過に関わりなく、ゲームルール上で全く同じ条件が揃っているのならば、全く同じ事態が成立するのである。
ここにおいて分岐はプレイヤーの意志決定の結果/報酬であり、プレイヤーの選択とはいくつかの前提条件に拠って成立する「意志決定」という行為の宿る最重要の寄り代である。
ゲームの意志決定についてはこちらが簡潔にまとまっている。
ノベルゲームにおいては「選択」=「葛藤」であり「分岐」=「結果に対する責任」であり、そして「選択前の文章」=「アカウンタビリティ」=「事前情報」と言って良いだろう。
そして、徹底して物語として捉えた場合との最大の違いは、選択前の文章というのはルールブックのルールとほぼ等価であり、そしてゲームのルールはゲームプレイ中は時制を超えて、物理法則のように常に均等に働くということである。このあたりはボードゲームにおける「選択ルール」「選択/追加シナリオ」をイメージしてもらうとわかりやすい。

下の昨日の記述において、私は「分岐する物語」について語っている。そしてリンク先の滅・こぉる氏は実は「ゲーム」について語っている。ここにズレがある。
物語を読む側(現実の自分)からすれば、<同時に>読むわけではない。
さらに厳密に言うのなら、目で追い記憶するというレベルで「読んでいる」かもしれないが、全体を一つの物語として捉えるという意味においては、受け手はその時には過去の文章を思い出し再構成しているに過ぎない。現実の私はリアルタイムにしか物事を捉えられないからだ。
しかし、ゲーム的に捉えるなら事前の文章(この場合は「尻尾」)はルールであり、ことはルール解釈の問題となる。そして、ゲームをプレイする立場としてルールは単純であるほど良い。分岐後の文章ごとに細かい状況の変化とそれに応じた限定特別ルールが追加されていくのでは、ASL(アドバンスドスコードリーダー)よりも分厚いルールブックを読んでいるのと同じことになる。原則論として大きな例外ルールはないように、基本ルールに従っていけば正解を目指せるようにしたほうが、ゲームデザインとして優れている。
滅・こぉる氏が拘っているのは実は上記のような極めてゲーム的な視点への拘りである。にもかかわらず、ことを「物語の問題」として「感情移入は可能か?」という問いを立てる(感情移入する際は、そこに分岐のない物語が成立しているのである)、あるいは世界解釈という視点に拘る(これは海燕氏の論を受けているので仕方ない面もあるのだが)など、自身がゲーム的な視点で捉えていることを認識していない面が見受けられる。
それに対して物語の側の視点を徹底した場合の立場で批判したのが先日の文章になる。

ノベルゲーム論/批評においては実はこうしたゲーム的な視点(アドベンチャーゲーム経由で輸入されたミステリの影響もあるだろうし、以前に触れたRPGにおける物語メディアの側面のクローズアップもあるだろう)が物語として捉える視点と著しく混同され、物語として評価するにあたりゲーム的な評価の視点を採用するのは日常茶飯事的に行われている。
一旦、ここまでで切ります。
あと、こちらも参考にどうぞ。
http://asciipad.at.infoseek.co.jp/0402.html#15
月姫
追記として、滅・こぉる氏向けに物語とゲームの相容れなさの典型的な例として挙げる。
 
月姫」の最大の敵役であるロアは、アルクェイドルートと遠野家ルートとでは姿が異なる。また、sampling blue. の宏方智樹氏が指摘されていた(Junkの過去ログの[24]番)のだが、志貴は遠野家ルートにおいて一瞬だけ雑踏に垣間見えるアルクェイドの後姿に対し殺意を覚えない。
そこには主人公の現在の意志に関わらない決定的な「設定の差」があり、その設定の差はそれぞれの物語の進行のために必須となっている。作り手側は「長い話の中で敵が同じだと飽きるから」とあっさり言ってのけているが、要するに「同じ設定」に縛られるほどに、分岐するはずのシナリオは設定に縛られて身動きが取れなくなり、結果としてエンタテイメントの質を落とす。ならば違う話と割り切って設定を変えてしまえという、それだけの話なのだ。
もしここに「多世界解釈」などというレッテル貼りをしたならば、月姫という奔放な作品の魅力をどれだけ失うことになるか。
物語とゲームは目指すところが異なる。それだけの話である。

やたら偉そうな上にツッコミどころが幾つもあるので読み返すのが辛い。んで、コメント欄。

# 滅・こぉる 『自覚していたわけではありませんが、私はミステリ的な視点でノベルゲームを捉えていたのだと思います。純粋なパズラーを「物語によって成立するゲーム」だと私は考える(従って、ゲーム的であるということと物語的であるということを排他的には捉えませんが、これは単なる用語法の違いであり大した意味はないでしょう)のですが、その考えをノベルゲームに応用すれば、全体としての整合性に重点を置くことになります。なお、「世界」という語を用いたのは、海燕氏の影響ではなく、『虚構世界の存在論』(三浦俊彦勁草書房)の影響です。もっとも、『虚構世界の存在論』がベースにしている「可能世界」(完全無矛盾で分岐しない世界)に基づく分析は行っていませんが。「世界」という語を用いると誤解を招くおそれがあるので、もうやめようと思っています。ただし、「多世界解釈」の発想そのものは、「世界」という語を抜きにしても記述できるものと考えます。『月姫』のアルクェイドルートと遠野家ルートの齟齬を「設定の差」としてうまく説明できるかどうかは咄嗟には判断できません(ルート分岐以前の文章はどちらの設定に従っているのか、という問いが生じる余地があると思うので)が、仮にこの説明が成功しているなら、「世界」と「設定」という用語の違いはあっても、「多世界解釈」と実質的には変わらないものになると思われます。』
# DAL 『「多世界解釈」の語の響きに振り回されがちなのはあると思います。私はSFでも何でもないフィクションにSF的な説明や解説が付加される(そして、それが慣例化して類型的で固定的な分類に陥る)のは作品と受け手の間の距離を遠ざけると考える立場ですので、作品の側に「解釈」を付与するのでなく、読み手の側に「文法」や「批評」を用意してやる形にしたい。』
# DAL 『あと、「物語によって成立するゲームであるミステリ」を想定した場合、それは「分岐する物語」と衝突するのではないか、という疑問が生じると思います。というか、「選択肢AとBとC」はその根本的な衝突の問題を扱ってしまっているのではないでしょうか。』

引いてる引いてる。
しかし無駄にヤナ奴だ。今も変わらないってツッコミは、ハイ、その通りです。ごめんなさい。