FFVIIにおける「生命としての星」のイメージには、自己完結したもの、閉じたものという色彩があまりにも強いように私には思われるのだ。
ゲームはその性質上、閉じた世界観を提示せざるをえない。それは当然ながら情報伝達メディアにおいては致命的によろしくない。どこまで頑張っても「所詮、現実の俺らには関係のない話」にしかならないからだ。例えばガンダムの世界観なんてのは、当初は現実の延長上の未来を舞台にしたSFていう枠組みだったけど、今は単なる異世界ファンタジーだ。そういうふうにかなり複雑で体系的な情報を実生活と別枠で隔離する感覚(要するにマニアックなコレクションの対象でしかない、てこと)をゲームメディアは間接的に支援してきてる。「残虐なシーンが多いゲームに影響を受けて現実世界で凶悪犯罪を犯す奴なんていない。ゲームは娯楽だと割り切ってるのだから」ということね。「バーチャル明治」と呼ばれてしまった『るろうに剣心』を読んで、「剣心のような人たちの想いが現在の我々の生活を作り上げているのだ」とまで言える人がどれほどいるか。むしろ、そうした直球のメッセージを受け取らないためにこそ、閉じた世界観を見出すことにゲームプレイヤーの意識は向けられるのではないか。
上記の評論はゲームがシナリオレベルで物語メディアたろうとした時に露呈した問題点を上手く指摘できていると思う。
一時期、どっかで話題になった問題の要点を上手くまとめてくれていると思う。
これに対比されるのが短時間で勝負のつく『雫』『痕』や、約三週間のプレイ期間中に日付の表示が全く行われない『My Merry May』などとなる。前者は『弟切草』などのサウンドノベルの影響をストレートに受けとめてのもの。
後者は評価が難しい。日付がない代わりに、おそらく一日も飛ばしていない。日付が表示されない以上は確認することは不可能なのだけど、ゴールデンウィークであるとか3日間であるとか三週間であるとかいった、期間を特定する言葉は頻繁に現れるので大体の予測はできる。シナリオライター側は「ノベル」の意識の強い人たちで、テキストの外側でゲーム的に見えてしまう要素を可能な限り排除したかったのだろう。それは選択肢の使用法を含めたシナリオの内容と極めて密接に絡んでいる。*1
ハイパーテキストにおける「ハイパーリンクのジャンプ」というおこないでおもしろいのは、そのジャンプという「アクション」をプレイヤー自身が行うことによって、ジャンプ前のテキストとジャンプ後のテキストの関係というものを、どうやらかなり強力に「信じてしまう」ことなのかもしれない。
情報は、当然ながら断片的な単語であるよりも連続していたほうが多くの情報を伝えられる。では、その連続性は何処で保証されるのか。
「ひとは「他人から聞かされた話」はなかなか信用しないが、「自分で作った話」はどれほどでたらめでも頭から信じ込んでしまう。」*2
という話だろうか。例えば、相矛盾する情報にリンクが分散していくというのは通常にある。
参考までに、またもこばさんの、同作品レビューにリンク。http://www1.ocn.ne.jp/~hkoba/gmemory/DT.html
疲れたー。
*1:以下はネタバレになるが、極めて示唆的で参考になる。「ミニゲーム風のイベントで特に顕著で、どうやっても亮に負けることができない」/「ややリースの側に踏み込んだ選択をした後、一切選択肢は表れません。その間、主人公が少しでも主体的に行動しようとすると、必ずリースか主人公の兄・恭平のストップが入ります。意志の芽が摘み取られていくさまがつぶさに描かれます。もう彼には選ぶことなどできないのです。ただひたすら、リースとの閉じたエンドに向かって一直線。その流れを主人公も感じていて、しかし抗えません。抗うための起点となるべき自主性が、丁寧に潰されていくのですから。」
*2:http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200405.htmlから、さらに飛んで。