ゲームと物語

  • Q1:昔はそんな区別してなかったのに、なんで分けて考えなきゃならなくなってんのか。

A1:ゲームがジャンル化したから。
ジャンル化するてことは、以前からの作品文脈の方向性がゲームプレイ時に入り込むことになる。
ゲームの場合、そのジャンルの文脈てのはゲームシステムの大雑把な方向性を指す。STGとかRPGとか。ジャンル化すると文脈からの継承、延長がプレイヤーの読み筋となる。でも作ってる奴は別の読み筋で読んでもらいたい。そこでプレイヤーを別の作り手の期待する読み筋に誘導するために「物語」が導入される、というのが大雑把な筋書き。要するに、ジャンル文脈に頼りきってプレイヤーの読み筋を誘導するための手つきの繊細さに欠けると「物語」が分離する。

  • Q2:「物語」って?

A2:この場合、ゲームの切断面と言えばいいのか。クリエイターとプレイヤーの共有事項と言えばいいのか。プレイヤーから見て理解できるもののこと。意味があるもののこと。
SLGの厚紙のユニットは、もしも何も印刷されてなかったら、ゲームのコマとしてゲーム盤の上に置いてなかったら厚紙の切れ端でしかない。だけど、そこに「第700師団」「武田信広」「三笠」とか書いてあると意味が共有されやすくなる。これが物語。能力数値も厳密に言えば物語的なものが混ざります。
ボードのSLGなんかだと、実際の戦場の再現性を高めるために、もしくはゲームバランスのために、基本ルール以外の様々な上級ルール、例外ルールがルールブックの後ろのほうに付記される。「徳川家康は影武者の可能性があります。東軍プレイヤーは戦闘フェイズの最初に影武者宣言をすれば、徳川家康ユニットを影武者ユニットと交換することが可能です」なんて書いてあって、これなんか物語の部分が膨らんだ形とも、ルールとも言える。つまり、物語とルールは本来は厳密に区別なんてできない。以前に書いたことだけど、物語とは常にルールブックの延長にすぎない。

  • Q3:では、なぜそれが「物語」としてルールとは別と見なされるのか。

A3:ビデオゲームの、とりわけRPGなどの性質によるもの。
ビデオゲームは、いくつかのパーティーゲームやレースゲーム等を除き、複数のプレイヤーが共通のルールに従って勝敗を争う形式ではなく、一人でプレイするスタイルとなる。ここでのRPGなどの「物語」は、プレイヤーにとってクリエイターの都合で出された後出しルール。最初に「竜王を倒せ」とだけ目標を与えられただけなのに、後から一方的に「竜王を倒すには○○が必要」「○○を手に入れるには△△を倒せ」と言われる。後出しルールである以上、心情的に納得のいかない流れだとアンフェアだと感じる。「ラスボスはハー○イ○ニーたんだ」「真のラスボスは更科修一郎たんだ」「実は真の真の敵は加野瀬未友たんだ」「実は真の真の真のラスボスは東浩紀たん」「実は真の真の真の真のラスボスは『ファウスト』の太田編集長たん」「いやいや実は……」って、最初に本当のラスボス出せよ! うぜえよ! やってられっかー!(何かを激しく勘違いしている上に無駄な八つ当たり)
…てな具合に、ゲーム製作者側の望む読み筋とプレイヤー側の欲求が噛み合わないのが「ゲームと物語」という言い方における「物語」だろう。それはよく見れば、後から提出されたルールにより勝利条件を変更され、無駄足を踏まされたことへの怒りであることがわかる。

  • Q4:それなら「物語」と言わなければいいじゃない?

A4:まさにその通り。「物語」てのは常に受け手が勝手に見出すもので、作る側が気にしてもしょうがない。

  • Q5:でも、シナリオやムービーは「物語」じゃないの?

A5:シナリオはシナリオ。ムービーはムービー。情報伝達の一手段です。そこに「物語」を見出すのは、ゲームの後付けルールとしての情報提示の手段として、一方的であると感じやすいため。ゲーム画面とムービーとをシームレスに接続したり、テクニカルな解決方法はいろいろあると思う。

  • Q6:そんなこと言ったって、ゲームメーカーもゲーム雑誌も「物語が…」という言い方をするじゃない。

A6:みんなが「物語」ていう言葉を使うから、それにつられてる。

  • Q7:「みんな」って誰だよ。やっぱり誰かが最初に「物語」と呼んだんじゃないか。

A7:ああもうしつこいなあ。じゃあ俺の言い方で書くけど、要するに認識の一手段だよね。経験的に、社会的に、道徳的に、倫理的に、受け入れやすく流通させやすい形でひとつの単位としてパッケージングされた情報を、大概の人は「物語」と呼ぶ。世間の流行によっても形態は細かく変化し続けるけど、まとめてしまえば、言葉の羅列の中に見出されてしまうフラクタルなパターンです。ゲームという言葉以上に、考えたってしょうがない。逆にいうなら、どこかに「物語」を見出したならそれは宗教的な、社会的な、道徳的な、倫理的な、常識的な、そういう作品外部の世間の価値観がプレイヤーの視線を通して再現されていると言っていいんじゃないの。

  • Q8:「顔ウインドウは物語的」id:tdaidouji:20050415とか言ってるじゃねーか。

A8:あたしがエロゲーギャルゲーについて書くときは、基本的には「コアゲーマー的な視点」を仮定して、作品内のゲーム的なるものを切り分ける形で語ります。物語的と言っているのは、世間様の言う「物語」じゃなくて、ゲームの側が構築するゲーム空間/ゲーム世界と、俺らの側の現実空間との境界の領域、といった意味合いで使ってると思ってください。何だったら伊藤悠id:ityouさんの言い方の「二次元」のことだと思ってもらってもいいです。

  • Q9:こないだの「神話と物語の違い」id:tdaidouji:20050606#p1って何よ。

A9:「ゲームと物語」が未分化だったころの作品を眺める際、今現在から見て「シナリオ」「物語」として抽出しうるように見える要素のことは「神話」と呼ぶのが一番それっぽいだろうと。
こないだの論文*1のテーマと重ねると、「プレイヤーが主人公となって物語を作る」「プレイヤーキャラクター=物語の主人公」が通用していた時代というのはゲームシステム(=物理法則)や美術(=自然科学)などとシナリオ(神話)が渾然一体となっていた頃のことで、「プレイヤーキャラクターと物語の主人公は別」てのはゲームが巨大化しシステム、キャラデザ、背景、音楽といった各要素が専門に分業されていく中で、システムと登場キャラクターとの切断がなされてゲーム内世界が「近代」化されてしまった後の話だと思えばいい。近代化とは「キャラクター」の発見のことで、これはビデオゲームの表現技術の進歩と共同歩調を歩んでいて、本来なら将棋の歩のひとつに過ぎなかったコマに名前を与えバックストーリーを与え人格を与えていく(シミュレーションRPGなどは正にその通りのことを行っているが)歴史であり、エロゲーギャルゲーていうキワモノ扱いの作品のユーザーがビデオゲームというジャンルの先端を気取れたのは「表現の進歩=コマのキャラクター化」の大きな流れを脳内で先取りしたという、ちょいとアレな自負による。
おいといて、プレイヤーが急増し、かつ同一/類似システムの利用が継続的に行われノウハウが蓄積され、巨大に複雑に発展してしまったゲームジャンルにおいては、もはやクリエイターの要望にある程度まで沿った形でゲームをプレイしてもゲーム世界を網羅的に体験することは不可能に近い。一部のやりこみマニア層/金と暇と実力のある特権階級のみはゲーム世界を体験し体現することを許されるかもしれない。けれども、肥大化したゲーム世界(それを背後で成立させているゲーム業界)は当然ながら特権階級(コアゲーマー)だけでは成立しない。農奴貧民被差別階級(ライトユーザー)を動員し徴税するために神話の再現としての宗教および歴史(としての物語)が呼び込まれる。一方で近代化(キャラクター化)は推し進められ、ついに神話を語ることが不可能になった、「神は死んだ」(システムと一体化したPCのシナリオはもう作れない、PCは傍観者に過ぎない)宣言がなされた*2のが「雫」。キャラクターゲーム(植民地)を取り込みながら巨大RPG(宗教と歴史)とアクションゲーム(徴兵/義務教育)を中心として成立した帝国主義の時代がPS/サターン時代で19世紀から第1次大戦、「ワイマールってダサイよな」(違)を皮切りにPS2/DCの時代が1930年代〜第2次世界大戦、どっちが枢軸かは言うまでもないですが、PCエロゲー陣営は無神論の立場により<人民に開かれた実用的で必然性のあるエロ>を合言葉に勢力を伸ばした共産圏、しかしエロの実用性と必然性が根本的に背理する上に実際の制度(システム)は前近代的制度が幅をきかせ(アリスソフトやエルフ)、空想的一国社会主義(圧倒的な楽園とか何とか)を唱えた人は後に亡命して政権批判し、それを支持するはやっぱり東大のセンセにモラトリアムな学生さん、と。
あ、脱線しすぎた。戻れねえ。ここで一旦終わり。
 
追記。
このへんの話は本来、更科コラムが一番早いんだけど、アレ真面目に読むと自殺したくなるから読みたくないし、紹介しづらいんだよね。どうにかならんもんか。