危険だよ、危険だよ

http://ab.txt-nifty.com/ab/2005/01/post_1.html

基本的に良文なんだけど脇が微妙に甘いかなと感じる。例えば以下の部分。

 これは日本語特有の曖昧さでもあるのだが、「トランプはゲームを遊ぶための道具です」と言うのと、「トランプはゲームです」と言うのはほぼ同じ意味として理解される。物品としての「トランプ」と、ルールや参加者も含めた遊びとしての「トランプ」が同じ言葉として表現されるためだ。

ここでトランプを「シムシティ」と言い換えてみると、途端にコスティキャンのゲーム論*1 への批判になったりする。つまり問題は「日本語特有の曖昧さ」などではない。コスティキャンは「勝ち負け」の言い方をぼかしているに過ぎないことがバレてしまう。公正な競争において市場原理が働けば上手くいく、という古臭い自由競争主義と、それを守るためのスポーツマンシップ、ノーブレスオブリージ。「公正な競争」という最重要前提条件を成立させるために動員される複雑な諸要素を<「ゲーム」を魅力的なものにする他の要素>という言い方で省略し誤魔化していることをあまりはっきりさせるべきではない。どうせゲームなのだし、プレイしたくないやつはプレイしなければいいじゃん、で済ませるべきなのだ。

「ゲームとは何か?」という定義をはっきりさせておく

これは危険だ。とても危険だ。そんなことはすべきではない。というのは多分リンク先の書き手の人が一番わかってると思われるのだけれど、つまり文章の流れそのものが「そんな定義はできない」という方向に流れているのだ。文タイトルの<『ひぐらしのなく頃に』はゲームか?>という大きな括りによって、ヤバイ話に流れ込むのを事前に阻止しているけれど、この話題に下手に首を突っ込んではいけないのだ。

id:judgement1999:20041003

ところで、こちらのリンク先は参考になるかもしれない。公正な競争は学校つまり制約の多さによって実現しており、コンピューターゲームの箱庭性がこれまでゲームをめぐる余計な定義をはねのけてきた。「ゲームとは?」という問いかけは、公正さとは、公とは、社会とは何か、というヤバイ問いを弄んでいるに等しい。

以下余談。

第1話から第5話まで、すべての物語に共通しているポイントがある。それは「選択を誤る」という部分だ。
 『ひぐらし』は悲劇的な物語であり、ある時点を境目にして、登場人物たちは幸せな日常から悲劇への坂道を一気に転がり落ち始める。

上の話と関連して「ひぐらしのなく頃に」と「月姫」の連続性を指摘する文章を探しています。2ちゃんねるにもネタを投下*2 してみたけど、誰も反応してくれません。「月姫」から『 Fate/stay night 』に至る過程で削除されていった諸要素で構成されているのが「ひぐらしのなく頃に」である、という言い方すらできるのですが。