アリスとテレスのまぼろし工場

宮崎駿ゴーイングマイウェイを貫いて10年ぶりに新作「君たちはどう生きるか」を世に問うた。

岡田麿里ゴーイングマイウェイをいつもよりちょっと手を緩めて5年ぶりに新作「アリスとテレスのまぼろし工場」を世に問うた。

公開日のズレ、およそ2か月。

え。

それでココまで被るの!?

まずそこに驚愕するよね。20世紀最大のアニメーション作家の一人と言って差し支えない大巨匠の欲望だだ漏れの、遺書かと誰もが疑うような己の半生を振り返るかに見えるエゴエゴな作品を見た、そのわずか2か月後に、ほぼ同じと言って差し支えない鏡のオモテウラみたいなのを40代の作家がお出ししてきて、しかも結果的に駿の妄想連ねた内容を内側から食い破るかのような話になってんの。おまけの応援団に中島みゆきまで引っ提げてきて。

しかもさ、みんな「いつもの岡田マリー」とか言ってるけど、確かにいつものマリーだけど、割とバランス取ってるというか、マイルドに手控えてるよね。けっこう人目を気にしてるっていうか、アニメーション側のスタッフの力に託してるとこが多くて、ゴリゴリのマリーって感じではない。

つまり、そこまで我を見せたわけでもない、エゴ見せ度70%ぐらいのマリーが宮崎駿の業の凄み120%に拮抗して、何なら食ってるとこすらあると。強え。

しかし、こうして並べてお出しされてみると、なるほど岡田麿里宮崎駿と同じくファンタジー作家なのだなというのがよく分かる。駿はアニメーションの跳躍力で一気に飛び越すが、マリーは言葉の跳躍力で同様に一気に飛び越えていく。心情の細やかな変化を連続的に繊細に描写する人ではないんだよねマリー。澱みと跳躍の人。跳躍でなければ地面を一気に踏み抜く脚力というか。「下ネタ」「下品」という大してあたってない評価のせいか「リアリズム寄り」とか言ってる評を見かけたが、手掛けてきた作歴からも得意分野からも、いわゆるリアルからは程遠い作家だよね。

世評がおかしいと言えば、新海誠もほぼ関係ない。新海誠はそもそもアニメーションに全く興味ない作家で、たまたまデジタル技術で自分で出来ること、スポンサーから金を引っ張れることがアニメ映画というジャンルであっただけって人だし、しかも自分以外の他の人間に全く興味を持ってない。ドライなので宿業を背負うこともないし。アニメーション作家である宮崎駿とはまるで被らないし、人間を描くことを生業とする脚本家である岡田麿里とも比較にならない。

では岡田麿里はアニメーションとの相性はどうなのか。ファンタジー作家である時点で、アニメ作家寄りの人だと思う。アニメーションに対する理解や信頼もある。そこは業界で仕事を続けてきたキャリアゆえとは思う。ただスタッフがお出ししてきたレイアウトやアニメーションに対し、映像としてきちんと見極められるのか、については今後の修行待ちなんじゃないかなとは。蜃気楼をもじって神機狼、言葉の面白さ以外はあんまり説得力がないというか、まあ、それこそこっちは宮崎作品で伝説的アニメーターによる雲や爆発、煙の圧倒的な力強さを当たり前のように見続けて育ってきたので、「うーん、悪くはないけど、もう少しパワーやニュアンスが欲しいですね」となりがち。なお新海誠はそもそも煙の動きとか一切興味ない。「君の名は。」冒頭の隕石落下シーンで雲がピタッと止まったまま(昔のアニメ作家なら、この場面こそアニメーターの腕の見せ所と張り切っただろう)というのが新海誠という作家の既存の手描きアニメーションに対する興味のなさ、あるいはアニメーションに対する自身の態度表明の名刺代わりになっている。ポスト宮崎どころか、日本のアニメーションに一切興味ないんだよね新海誠。宣伝として有効活用はするだろうけど。

一方、ポスト宮崎とかいう何の意味も面白みもないレースをすっ飛ばして、ファンタジー作家としていきなり宮崎の隣に並び立ったマリー。これだけで面白すぎるので、ホントみんな見に行くといいと思います。