インボイス制度の問題の本質としての、エブ・エブ

たとえばインボイス制度について考えるとき、たとえば東京都による社会福祉団体への補助事業について考えるとき、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」が米アカデミー賞受賞までたどり着き、今現在、映画館で上映していることに注意を向けるべきだと思う。

偶然だが、これらはどれも「現代社会に生きる人と税金の関係」についての話で、現在進行形で語られつつある米欧中心経済の終焉、自由主義経済が直面する危機についての話だ。

見てない人のために念のために確認すると、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」は個人事業主と思われる主人公エブリンが確定申告と向き合う話である。

次々と発生する日々の家事に、コインランドリー経営で発生する雑務、さらには老親の介護に子供との家庭内不和と、終わりの見えない忙しさの中、エブリンは確定申告のために経費の控除を巡り国税の監察官と税務署で対決する。経費が認められなければ差し押さえを受け生活が崩壊するかもしれないピンチのなか、エブリンは自己と向き合い、家族と向き合い、監察官とも向き合う。その途中でマルチバースでカンフーするというのが映画のあらすじだ。

なぜマルチバースなのか。

マルチバース、昔でいうとパラレルワールド。「もしかしたら今の境遇、今の生活とは違う自分がいる世界があるかもしれない」という設定は、元を辿れば「過去から未来まで起こる出来事は既に決まっている」という運命決定の立場と、「未来のことは決まっていない」というアンチ決定論との間の、折衷的な妥協提案から生まれている。なんでそんな折衷妥協が必要だったかというと、原因と結果がセットになっている前提で成立してる学問的思考の立ち位置をなんとかして守りたかったから、という話になる。

世の中の出来事に因果なんかねーよと全部ぶった切ってしまったら「学問なんかやるだけ無駄だよ」になり、無事、トランプ政権とその支持者たちが発生する。いやいや、世の中には何もかもを決定づけるほどではないけど程々に因果関係が見出されることもあるし、一方で因果関係が成り立たないこともたくさんあって、そこの無数に無限にある隙間は地道に草の根作業でチマチマ埋めてくしかないんだよ、という知的活動という名のチマチマ作業を続けていくために、なんか拠り所が欲しくて出てきた妥協折衷案のひとつが、「あのとき、愛の告白を断っていたら巡り巡って私は世界的名女優になっていたかも」という、行為と結果の因果関係を肯定しつつ、しかし決定論でもない、マルチバース設定を呼び込んだ。

マルチバース設定が採用されることで、可能性が実体化する。

コインランドリー経営にカラオケセットがなぜ必要なのか。それはカラオケセットを導入することで、エブリンは可能性を手に入れるからだ。個人事業主にとって、事業者にとって、仕事することは生活することと重なっている。パブリックとプライベートはそうそう分けられるものではない。クリーニングの在庫は生活空間に持ち込まれ、コインランドリーの店内は春節のお祝いの飾りつけで彩られ、時間も空間も、生活も仕事も、混然一体となっているのが当たり前だ。個人の可能性の具現化であるカラオケセットは仕事の延長として購入され、経費として申請される。可能性を将来において実体化するのは経済行為として正当である。

税務署は決定論的立場をとる。コインランドリーは過去、現在、未来においてコインランドリーであり、その仕事にカラオケセットは必要ない。経費として認められない。仕事は仕事、趣味は趣味。税務署は可能性を認めない。お金は、記録と共にあるからだ。記録は既に決定づけられており、将来においても記述され続ける。

経済とお金は別物だ。経済は生活であり、お金は記録である。経済は将来であり、お金は過去である。経済は可能性であり、お金は確定した運命である。マルチバースのなか経済とお金は循環し反発し絡み合う。

マルチバースは最終的に確定申告が通ることでひとつの収束に向かう。しかしそのためにエブリンは国税の監察官と語り合い、ストーリーを提示し、愛を告白し、見つめ合わなければならない。つながることのない手と手を互いに差し伸べ、互いの身を相手に差し出すことで、決定論とアンチ決定論はとりあえずの調停を得る。とりあえず、ほんの1年、結論が先送りにされただけの調停であっても。

なぜカンフーなのか。

カンフー映画は、それまでアクションでなかったものをアクションに取り込む驚きを映画に導入した。握りこぶしや刃物や銃などの、それまでの暴力や武器の表象であったものの外側すべてをアクションに取り込んだ。ヌンチャクやトンファーなど見たこともない珍しい異国の武器からはじまり、椅子に机に皿にそのへんの布に、生活空間のありとあらゆるものが武器になった。戦闘のための体さばきはボクシングやレスリングを大きく逸脱し、動物の物まねや酔っ払いのフラつく千鳥足までもが戦闘アクションとして取り込まれた。カンフーを通して、人間のありとあらゆる行動、ありとあらゆる身の回りの道具がアクションの内に取り込まれてきた映画の系譜。その文脈を介することで、マルチバースに拡散したありとあらゆるエブリンを一つの肉体の延長に繋いだ。

しかし、そこには実は大きな危険が伴っていると映画では語られる。マルチバースの無限の自分と連結することで精神の器が壊れてしまう。カンフーは肉体を延長することはできても、その延長に心が耐えられない。肉体の延長の結果壊れてしまったエブリンの娘ジョイはジョブとなり、マルチバース世界をベーグルの穴の虚無へ落とそうと行動する。エブリンはジョブに対抗するため身体拡張のリスクを受け入れ、精神崩壊を免れつつカンフーマスターの能力を得る。

おそらくエブリンがADHDであり可能性を内包したまま全てに意識が向け続けている状態、つまり何物でもない状態のまま宙づりで分裂を生き続けてきたのに対し、ジョイは移民2世、LGBTといったリベラリズム浸透後のアイデンティティ決定権を行使しなければならない世代であることが二人の分岐点となっている。ジョイは自由主義の権利拡張の世代としてありとあらゆる可能性の自己に接続は可能であっても、自己が何者であるかを決定しなければならない世代の呪縛がゆえに、何物でもあり続ける意識の状態に耐えられず、ベーグルの穴の虚無へ落ちなければならなかった。

ベーグルの穴はいわゆる存在するが存在しない表象である。ドーナツの穴でないのはジョイがエブリンに食べ過ぎを注意されたのを気にしていたためで、ドーナツでなくベーグルであったことで、最後、二人が繋がりを回復する可能性がわずかに残ったと考えられる。マルチバースにより無限の可能性が実体化してしまったのを、存在するが存在しないベーグルの穴によって清算マルチバースを崩壊、解体させようとした。

ジョイ(JOY)というLGBT・移民二世の表象を背負ったものがジョブ(JOB)に堕ちたのは無限の可能性を手にしつつ自己決定を行使しなければならなかったため、という設定はアメリカ経済の、というより自由主義経済の行き詰まりを示唆している。可能性が可能性のままであり続けることでかろうじて分裂しまくりの行動をとりながら自我を保ち続けるエブリンは言うまでもなく今までの自由主義経済圏の経済活動そのものだが、娘は自身が既に可能性の実体化する場にまで辿り着いてしまったために、そのふるまいは耐えがたい。

自由主義によって得た自己決定権と多様性は、およそ一個の統合人格の管理しうるものではない。インボイス制度の問題の本質はなによりそこにある。自由主義経済の、流動性を最大限に尊重し可能性を追い求める行動にエブリンは沿っているが、税務署の監察官はついていけない。なぜコインランドリー経営にカラオケセットが必要なのか。映画の中では1週間の延長期間が認められることで大団円が図られるが、日本の税務署にはそんな余裕など残されていない。

日本の官庁には、民間を管理、監視する余力はもはや失われていることが、労基署や年金事務所、そして税務署の窓口に実際に行くとひしひしと感じ取れる。米国の国税の監察官がマルチバースの無限の可能性を否定するのは、それを追いかける力がなくなっているからだ。日本の役所もまた、もともと実務を行う体力に乏しかったが、近年、ますますその能力は失われつつある。にもかかわらず、自分たち自身の力では実行不可能な法規を定め、漠然とした官民の寄り合い、もたれあいに依存し、ボランティアにお願いすることで「なにかやったこと」にしてしまう。かといって実務をこなす体力がないのだから、それしか手がないのだろうが。

そもそも小規模事業者の消費税納税がなぜ見逃されていたかといえば、そんな細かいところまで追いかける労力をかけられなかったからだし、それによって得られる税金もわずかだったからだ。それを今になって網掛けしたとして、どこまで追いかけられるのか。電子帳簿保存法で税務署の椅子に座ったまま監査できるようにしたかったのだろうが、実際に行われる経済活動、すなわち生活や仕事の実態が、メールやPC、スマホを常に脇に置きながらやれるものかどうか(それが効率的な身体の動きなのかどうか)、考えなかったのだろうか。

事業者が制度をまともに守れなくても、それを逐一指導する力は税務署には残されていない。となれば、正直に納税する事業者間の正規の経済圏と、まともに納税しない非正規の経済圏の分裂を深めていくことになる可能性がおそらく高い。後者を摘発する能力が税務署に残されてないからだ。税負担の公平性を追求しようと制度設計をするのはいいが、実務レベルで自分では出来もしない法規を増やせば増やすほど、税負担の不公平が加速度的に広がっていく。

そんな、管理能力の失われた官庁が、自身ではできもしないことを民に業務を丸投げすることで、税負担の不公平性が広がっていく懸念が高まるというのが、今回のインボイス制度の問題の本質である。