「マンガと映画」の問題点、傾向など

ネットで感想を漁ったら絶賛ばっかりだったが、やはりピンとくる書評が見当たらない。
で、三輪健太郎自身の文章が検索に引っかかったので読んでみて腑に落ちたのは、この人の言葉は基本的に映画の側であって、マンガ研究の側ではない、ということ。
これは仕方ないことではある。なんせ映画とマンガでは、前者のほうがファンも多ければ評論も批評も積み上げてきた量が桁違いすぎる。真面目に評論文を読み漁れば読み漁るほど、映画について語る言葉のほうが情報量が多くなって、語り口が映画寄りにならざるをえない、という側面がある。そして三輪氏の著作に感じた、過去の論文をきちんと踏まえていく学術スタイルだと、やっぱし、そっちに向かっちゃうんだよね。結局のところ、「マンガ研究」はまだまだ実地の報告が足りてないってのもある。
マンガを語るのに映画に寄り掛からざるをえないというのは、もちろんこの著者の話だけではなくて、過去に積み上げられてきたマンガの評論が、どうしても映画の批評用語に寄り掛かってるってのもあり、研究者として論説を積み上げていくためには過去の言説を踏まえていかないといけないから、議論がそちらに引きずられ気味になるのもある。結局のところ、著者が本書でも言ってるように「映画とはここが違う!」という反発や相対化の態度をとることで「マンガの独自性」を主張してしまって終わり、になってしまうのだ。たとえば、本書で言及されてる伊藤剛の「フレームの不確定性」なんて概念も、要するにフレーム、コマ枠が「映画を眺めるような順繰りの単線的な流れと違っている」という主張、つまるところは映画批評の用語に収まらない性質もあるんだよ、という指摘にとどまってしまっていて、じゃあ、そこからマンガの分析ができますかといえば、例えば「絵画」「コラージュ」「舞台演劇」「TV番組」「TVゲーム」等々の、無数の対比可能な視覚物と対比してるかといえばそんなことはなく、つまり「映画じゃない」という主張にしか成り得ていない、という問題点がある。これは別に伊藤剛だけの話ではなく、他の多くの議論も、それらを踏まえてマンガと映画の関係を捉えなおそうとしているはずの本書でも、繰り返されてしまっている。
彼ら論者たちは欲張り過ぎに見える。彼らはマンガに、マンガの中の技法に、時代性があることを見て取る。マンガは近代精神に基づいている、マンガを古代エジプトの壁画や平安鎌倉の絵巻物などと連続性を見出すのはおかしい、と断じる。その主張は基本的には正しい。マンガは製作者、流通者、消費者、市場全体や社会の中でマンガとして扱われる大まかな総体の中でマンガとして成立しているのだし、一足飛びに鳥獣戯画を結びつけようとするのは評論上で有益とは言い難い。評論家は、マンガ作者が普遍的価値として製作した実作品に対し、その時間的、空間的、社会的な到達の限界を見出す。なにはともあれ、一定のラインで区切らないと扱えないからね。けれど、研究者たちは一方で、自分たちの言論に永続性、普遍性を付与しようとしちゃう。先人の研究の言葉を引き継ぐという形式を求める。それは、そういう様式をとらなければならない、という要請によるものだけれども、その限界を自覚し踏み越えてくのでなければ、つまり、どこかで踏み外していかないことには、マンガの実作と張り合うことなどできないはずだ。実作の現場におりて行かないのでは、「一般化と平準化の誘惑に抵抗し」ているとは言い難い。
ごたくはこの程度にしておいて、実際に本書で取り上げられている題材について。
たとえば数か所で取り上げられている大島渚忍者武芸帳」について著者は、この映画について語られる言説を幾度も様々な形で参照しているが、しかし一方で、それについて自身の意見の表明は行っていない。言い方は悪いが、使うだけ使っておいて、そのまま顧みず使い捨てている。

実際、今さら見て、さまで面白いものではないとは思うが、そこまで残りかすに何も残っていないような扱いでいいのだろうか、というのが素朴な感想だ。映画として何らかの形で失敗しているのかもしれないが、その理由を探ることに意味がないとは思われない。が、著者はそのあたりの議論を過去の論者にまかせて、その論者の議論の上澄みから語り起こしを始めてしまう。
一方で、著者は「結論にかえて」という一節で現在の映像研究の状況を紹介し、映画理論の解体を解説するなかで、いわゆる出崎演出に言及し、肯定的評価を引用してもいる。
出崎? ちょっと待て。出崎演出にはハーモニー処理と名づけられた静止画をそのまま映す演出技法がある。静止画を上下にスライドしたり、クローズアップしたりと、それこそ「忍者武芸帳」のそれと、「話を聞くだけならやっていることは同じ」ものがある。見比べりゃ両者が全く違うのは一目瞭然だが、その一目瞭然から論を起こすことが、なぜできないか、という話だ。著者の事情としては「他の研究者がそういう言及の仕方をしてないから」なのかもしれないが、読者からすれば、あれだけしつこく「忍者武芸帳」を巡って映画とマンガの境目について論じておきながら(正確には過去の研究者の論じる内容を解析しながら)、結びの美味しいところに出崎演出を提示するなら、なぜそこで両者を結びつけて一席ぶつことができないのか。出崎演出は論者がいくらでもいるから探せば何でも出てくるだろう。奥行きを否定し映画をスクリーンという平面に返してみせる、それはそのまま本書で一章を割いて言及された「空間」についてのラジカルな批判として捉えられるはずだ。あるいは強調の効果を狙って一枚のセル画像を上下に幾度も動かす3回パンみたいな技法にしたところで、そこでカメラ(カメラオブスクラの中の再現空間)を仮構し現実を単眼から見て取るという視点のロジックが否定されるのも言うまでもないだろうし、画面分割されるとなれば分割された画面構成とコマで割ったマンガの画面との類推はとっくの昔に幾度も論じられたはずだ。
それらは本書の焦点でもなければ論点でもない、という擁護はもちろんありうる。だが、では何を論点としているのかというと、実を言えばはっきりしない。現代マンガを近代という時代に基づくものとして、映画と互いに参照しあう関係として、という枠組みはあるが、しかしその枠組みも引用に基づくものであって著者の論点とは言い難い。さらにいえば、上記の「忍者武芸帳」の扱いに見られるように、映画とマンガの関係は本書の中で映画からマンガへの関わりは整理し提示されても、マンガから映画への干渉は提示されない。あくまで一方的な関係なのである。マンガについて映画との関わりの中で語るという切り口だから当たり前なのかもしれない。だが、マンガの構成についてベルクソンを取り上げ時間に引き寄せて語るのは、やや領分を踏み越えていやしないか。映画は時間によって連結され枠にはめられているが、マンガは別にそうと決まったわけではないはずなのに。むしろ時間の持続を絶対的なものとせず、幾つかある選択肢のうちの一つにまで格下げし、並列的に見て取れることがマンガの強みですらある。
あるいは萩尾望都トーマの心臓」の表現について、“「マンガのコマ構成が古典的な形で完成されたことを前提に」し「それを解除する形でできてきたものです」”という夏目房之介の言葉をひき、それを受ける形で“「映画的」なマンガのスタイルが成立した後に、それを逆手にとって成立したと考えられる”と述べているが、しかし、別の個所でコマ概念が強調され過ぎている現状を指摘しておきながら、コマの構成に強くひきつけて読み取ることを自明視していいのか、という問いが立てうるはずである。なるほど「コマ」は素直に「映画的な流れ」に従って配置されている、そのことは時系列的に<「映画的」なマンガスタイル>以降、と言っていいとして、そこから「解除」あるいは「逆手にとって」いる、という読みで本当にいいのかは、議論の余地がある。たとえば<「映画的コマ構成」を引用している>という極端な言い方だって、場合によっては言えなくはない。実際にはそこまでの極論ではなく、さまでに「コマ」という枠組みばかり意識しているのは評論家だけである、というのが正解だろう。作者からすれば、ようは作品全体が有機的に構成されるにあたって、別にコマだけに頼る必要はなく、それこそシナリオ、台詞、人物そのもの、全体を連結させるための要素はいくらでもあり、コマの法則性に縛られなくともいい、といったところか。映画という概念に引きずられざるをえないからコマに囚われた読解に拘らざるを得ず、その文脈を引き継ぐ都合から「フレームの不確定性」のような議論が取りざたされ、それによってコマ以外に注目したほうがいい場面でもコマに視線が向かってしまって、「映画的」という文脈の都合で「解除」や「逆手にとって」という逆接の読解が生み出されたと見るべきではないだろうか?
おそらく、本来は絵と文字と、その間のグラデーションを織りなす記号的図像との、その作品ごとの連結をひとつひとつ拾っていかなければ、本当にそれが「コマの問題」なのかすら決定できないはずである。しごく単純に、文字から絵、絵から文字、文字から文字、さらには絵から記号、記号から文字、記号から記号、といった「つながり」がそこにはあるのだから。
本書は残念ながらあまりにも映画と対比しうる「映像」に目が向かいすぎて、取りこぼしが多すぎると思う。本来、主題としたいはずの「風」をめぐる議論にしても、マンガが風を示す「記号」の、その記号性のグラデーションに対し意識が向けられているようには見受けられない。本来ならオノマトペ漫符についての過去の考察や論考は数多くあるのだから、それらを踏まえた上で、空間構成と記号との関係について目配りしながら対象の「ふるいおとし」を試みるべきではないだろうか。