@oyomot: RT @Loser147326598: この絵面は反則でしょ URL
@oyomot: RT @higahisa: どこの映像見ても収穫前の稲がやられてる。水はすぐには引かないから、芽が出たり腐ったりで米は廃棄になる。うちの田んぼもほぼ全部アウトだった。今年は米も野菜も、全部高くなるよ…
@oyomot: 最近少し持ちなおしてきたコンビニ弁当の中身がまた壊滅的になりそうだと思っている。おにぎりが今よりさらに小さくなった日にはもはや100円セール?バカにスンナ状態になりそうだ
@oyomot: もしかしなくても茨城の農業エリア壊滅ですか。千葉と並ぶ関東圏の食糧生産地が
@oyomot: というふうに考えると、コマの並び、それ自体には時間をコントロールする機能は備わっていないんじゃないか、と思われます。あくまでオノマトペ主導に付随し間接的に映画的な時間機能が与えられた形じゃないか
@oyomot: では、そういうオノマトペとはなんですか、というと、文字が文章、一列の文字の羅列、と別の機能の側で対立するということじゃないかなと思います。非ナラティブの側で画面を統御するものとしてオノマトペが整理され、それに引っ張られてコマが絵画の文脈からひっぺがされ「ショット」化する
@oyomot: それ以前のマンガはやはり絵画の延長なので無時間的な読み取り方が強いのではないかなと。構図主義的な構築をしたがるとか。フランスのマンガ研究本でクローズアップの手法の導入を映画的だ、というんだけど、おそらくそれは「構図が崩れてもかまわないという態度で絵が描かれてる」という意味に近い
@oyomot: たぶん昭和の時代のマンガ研究のほうがこのへんは考察してる気がするのだが、あんまし調べてない
@oyomot: それらはそれらとして、たぶんコマの捉え方を映画のショットになぞらえるという行為自体に連携してくるのにオノマトペの使用の拡大があって、オノマトペが音を経由して時間を区切る機能を発揮することでコマを映画のそれのように時間分節で捉える読み方が定着したんじゃないかなあと。
@oyomot: 映画が様々な形でマンガに影響を与えたとして、たとえば登場キャラクターを動的に見せようとしたり(のらくろはかなり動的表現を取り入れようとしてる)、あるいはキャラクターデザイン自体が影響を受けてたり(同じくのらくろ)、アニメーションの初期のメタモルフォシスを導入しようとしたり(杉浦茂
@oyomot: 昨日の補足。なんで話がオノマトペに跳んだかというと、マンガを映画的なものとして捉える、再構築する過程がマンガの歴史の積み重ねの道程にあったとして、その映画的な捉え方への再構築を最終的に後押ししたのがオノマトペじゃないかなあと思うので
@oyomot: だから映画以前の時代にコマを自由にまたいでるようなリトルニモだと、それは別に時空間をまたいでるとかそーゆーのではないと思うし、なのでマッケイを出してきて手塚治虫より先にコマの実験をいろいろやってるんだ、というのは、おそらく見誤ってるんじゃないかなあ、と憶測の翼を広げている
@oyomot: 音声と書くと限定されちゃうかもだが「コマを装飾するオノマトペ」みたいな。コマが時空間として捉えられるのと、そこに音声がくっつくのがたぶんマンガの絵の質の捉え方の分離に間接的に影響が大きそうだなあ、とふんでる
@oyomot: 初期アメコミの資料とか漁らないと余計なこと言えそうにないのだが(でもいう)、オノマトペの機能が拡大拡張してったのは多分トーキー以降だと思う。それ以前は人物像とかの絵を説明し修飾するものとしてのオノマトペで、独立した音声の側に分離するのはたぶんトーキー以降
@oyomot: 漫画のコマが時空間化したのはたぶん映画普及以降で、映画以前と以後で影響受けてほぼ変質してしまったマンガの書き方と、一方で、それ以前のマンガの書き方も並列的に生き残っていって、みたいな感じだと大体とらえてる。たぶん
@oyomot: @highcampus それ製作スタッフが自分で書いてたはず
@oyomot: そういや、ポリティカルコレクトネスとはまるで対極のようではあるが、絵空事のまま現実世界の時事ネタに粗雑かつ無造作に首を突っ込む、というのはフィクションのとる態度として率直で真っ当なわけだけども、原作小説はあのときの地点に回帰してくれるんですかね
@oyomot: ちなみに台湾に行ったときに中文版を購入したのだが(読めない)、アニメが原作1巻目をそのままアニメ化して中東あたりに海賊版が流れてったら、どう受け止められるのかなあ、など。さっき検索したらガザ地区のハルヒのプラカードからもう9年経ってたわ