@oyomot: 文系廃絶なー。ネット上のやり取りがなんかソクラテス時代のギリシャの直接民主制みたいなシチュに見える今どきほど人文教育が注目されるタイミングはないんじゃないかと思うんだが(ネット上のレトリックを君も論破可能!とか、きわめて実用的な学問だろう)
@oyomot: RT @juangotoh: URLこのウィンザー・マッケイのエピソードを見れば、近代アニメーションというものがボードビルショーの延長ではじまったのがわかる。
@oyomot: @camiroi 僕は大塚英志もまた、マンガの表現技法について語る言葉をいまだ持ちえていないのだろうと思っています。なのに「マンガ表現論」に対抗しないといけないと思ってるんだろうなと。僕はそういう危機感の表明に共感してしまう。「表現論」がマンガの文法を縛りかねないという危惧ですね
@oyomot: @camiroi 僕としては、そこに危うさを見た、ということになります。もう少し歴史的な経緯やメディア間の横断をよく見極めて厚みを重ねる作業を続けてほしいと思うのですが、三輪氏のスタイルでまだそこに至っていないように見えたのに、それを支持する人が散見されて、あれっと思ったのです
@oyomot: @camiroi やっぱり映画の言説を使うとマンガの言説って何となく繋げちゃうんですよね。すると、慎重に両論併記するにしても、映画寄りの構成に近づかざるをえないといいますか。そんなバランスの悪さを補うのにマンガ評論は検証しきれてない現代思想言説に頼らざるをえないように見えた
@oyomot: @camiroi だから、三輪氏の著作は、現時点でマンガ研究の中で議論が分かれてる言説を過去に遡って検証し、最近のマンガ評論の成果をそこに継ぎ合わせようというのが、本来の目論見だと思うのですが、僕にはそう読めなかったんです。マンガ言説がどうしても足腰が弱いもので。
@oyomot: @camiroi 三輪氏の著作自体は、学術論文の方法論として正統派の、過去の議論を綿密に参照してくスタイルです。で、僕が勝手に感じ取ったのは、バランスが悪いんです。もしもマンガと映画の議論を併記したとすると、映画の言説の厚みにマンガ言説が負けるんです。
@oyomot: @camiroi いえ。以下は全部、自己流の解釈になりますことを先に謝っておきます。僕の読み方ですけども、「マンガの独自性を見出そう」みたいな「マンガ表現論」の方向性自体は変わってないです。ていうか三輪さんは夏目門下のはずです。ただ、映画は、その評論の言説の厚みが圧倒的なんです。
@oyomot: @camiroi 僕がそう感じたのは、「映画」に固執した徳間や春樹というふうに大塚氏が一連の議論の中で「映画」をなるべく相対的に、低目の位置に位置づけようとしていて、映像表現の解釈に映画を無前提に基準とする態度への対抗意識と読みました(自分がそうなので)と申し添えておきます
@oyomot: @camiroi 「マンガ表現論」を言論の場で述べる人たちが性急に結論(マンガ表現の起源の再発見)を求めようとしている、ように見える気配(これは僕がそう見ているということなんだけど)、を感じ取って、けども大塚英志自身がそれへの擬銃的な対抗言説を持ちえないための議論、というような
@oyomot: @camiroi 何と言えばいいのかな。。。。ここ最近のマンガ評論。美術評論や伊藤剛や泉信行らの論を参照しつつ、古典回帰というか改めて映画評論との摺合せしながらマンガ評論の再構築を試みよう、みたいな。内容としては、かなり細かく古典的な議論と最近の議論とを合わせよう、ていうような
@oyomot: ”当時の多くのパブリックスクールでは、スポーツは少年たちに勇気、忍耐、自制心、団結心、忠誠心などの諸徳目を教え込む格好の手段であると考えられた””少々荒々しいスポーツやそれに付随する上下関係は、むしろ「必要」と考えられた”URL