http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/zannenn24/status/395705911966052353

はきけがする。
こうして残ったのは、かの「ネットの人気者」は、
ネット上の匿名者から「おまえやめろ」と言われたときは、さんざん「書く自由」を理由に匿名者をあげつらい、
おそらくリアルの関係者から「おまえ気をつけろ」と言われたときは、あっさりと「書く自由」を放棄した、
そして、周囲は上記のどちらについても、その行為を支持した。
そんな当たり前の結果のみ。

「リアルの生活を優先するにきまってるだろ、察しろよ」という生暖かいご意見については、そんなものは最初から自明だし、それを心得たうえで書き込むものだろう、それこそネットリテラシーなぞ頭を掠めもしない高校生や大学生じゃあるまいし、と当り前の話をさせてもらう。

不特定多数に見られる場に書くことを、誰もが最初から自覚して行うとは思わない。自分が不特定多数から見られることを強く意識したのは、転叫院とかいう聞いたこともないやつから、やたら好意的で馴れ馴れしいメールが届いたときだった。まず釣りを疑い、詐欺を疑った。現実世界で知り合っているわけでもない相手から好意的な感情を向けられること自体、まず「自分は騙されているんじゃないか」と思う根拠となる(こういうネガティブな思考に同意できない人はリア充認定、ぶっちゃけネットで自己を晒す必要もなく、主張する必要もなく、何かを書かなきゃいけないというストレスに晒される必要もない自律者なので、そういう「まとも」な人は無視する。リアルで交友を楽しめるのだから)。そうやって、人はそれぞれ、自分の書いたものが不特定多数の人目に晒される危険性に気づかされ、ネットリテラシーを身につけていく。「ネット」と「リアル」が不可分であり、ややもすると自分の実生活を侵しかねないなんてのは、その時点で誰しもが嫌でも気づかされる。

この匿名を装った、けれど現実からあっさりと追いつかれるこの場所は、言ってみれば法や道徳からの「おめこぼし」で成り立っている。誰もがそんなことを自覚した上で乱痴気騒ぎに耽る。自由などないことは暗黙の了解のうえで目を逸らしつつ、自由を謳歌してみせる。それ自体は、わきまえた上のお遊びだ。
そういう場所に、「わきまえてない奴」が現れる。そいつは本気でネットの自由を信じ、他の場所で満たされなかった自己の思いを本気で晒す。彼は周囲が「わきまえたお遊び」に耽ってるとは思っていない。本気でネットは自由だと思い込んでいる。ところが、ネットは彼を受け入れる。わきまえてない厨房であっても、彼の言動は場の雰囲気を壊しはしない。彼は生暖かくウォッチされたり、バカにされたりしつつも、「ネット民のわきまえた対応」によって結果的に「ネットのお遊び」の中に組み込まれ、彼の満たされない自我は、とりあえず生き延びることを許される。
そういう、現実世界で息をすることが出来ないバカがバカのまま生き延びることを許される、それがたとえ、本人と周囲の間に行き違いがある形であっても、その可能性が、「ネットのわきまえたお遊び」に価値がある理由だ。全員が仮装している中では、本当に奇形であっても紛れてしまう。現実世界では拒絶され阻害されるであろう奇形の存在が、ここでは紛れ込んで生き延びられるかもしれない。「ネット上の言論の自由」があるとしたら、「1000万人に一人、いるかどうかもわからない、本当にネット上で発言することでしか生き延びられない切実な生き方を抱え込んでる誰かのため」だ。

コンビニ店長は、それを自分の都合で使い潰した。
彼は、ようするに昔のパソコン通信の文化圏のノリを引きずったまま、不特定多数に見られる時代の様相をまるでわきまえないままの頭でものを書いた。彼はあくまで「お遊び」としての「書く自由」を主張したのであって、昔はいざしらず、今どきにいたるまで本気で「書かないと死ぬ」などと思っていたわけではない。せいぜいがコンビニ本部に圧力かけられてたら即やめる程度の「書かないと死ぬ」であり、つまり、普通の社会人のネット書き込みと同程度の「わきまえた態度」で、「書きたいものを書く自由」を捉えていた。
そして、そういう「ネット上のお遊びとしての書く自由」を主張した。彼の理屈の根にあるのはつまり「わきまえてるから自由に書いていい」であって、その裏にあるのは「わきまえてないやつに自由にものを書く権利はない」である。
彼は「ものをわきまえた書きかた」を習得していた。ネットリテラシーに通底した果てに、ネットリテラシーの根拠である「書く自由」までも、遊び道具に使うようになった。「書く自由」をもてあそび、最後はあっさりと「もう遊びは終わり」と捨てた。彼がいいように使い捨てた分だけ、「ネット上の言論の自由」は各人の意識のなか委縮し制限されるようになるのだろう。彼は、大した理由もなく、「お遊びとして」やりたいようにやるためだけに、この先「1000万人に一人、いるかどうかもわからない、本当にネット上で発言することでしか生き延びられない切実な生き方を抱え込んでる誰か」が息をする場所の寿命を、数年間か縮めたのだった。

そんな彼を、「ネットリテラシーをわきまえた人たち」は、当然のように支持した。
匿名でコンビニ店長を否定した誰かを、彼らはよってたかって批判する。
リアルでコンビニ店長というブロガーを潰した何がしかに対し、彼らは「それが社会の現実」と受け入れる。
それは、当然の帰結だ。
そうなることが判り切っていた話だ。
その、なんの波乱も起きない「もののわかった」火遊びを主導して、楽しかったんだよね、店長?