CEROむざん

>厳しい自主規制をしてきたゲームも規制対象に
http://www.pjnews.net/news/909/20101224_1

むーざんむーざん

スクエニ和田社長が都条例のゲーム規制のニュースを聞いてツイッターで焦ってる
http://blog.esuteru.com/archives/2090942.html

むーざんむーざん

ちなみに、今回の東京都の条例の話は、当初はゲームの暴力表現にも向けられていました。しかし、実情を調べると、ゲームはレーティングシステムのCEROが機能しているので、問題にする必要がないということになり、マンガ・アニメの表現へと関心が移っていったという経緯があります
http://togetter.com/li/77755

むーざんむーざん

出版業界としてももう一歩踏み込んだ取り組みを行う姿勢を示すべきではないか
http://www.h-yamaguchi.net/2010/12/cero-0080.html

………。

なんというか、彼らの言葉にもにょるところがあって、ケチをつけときたいなあと思ったら、それどころじゃなくなってしまった。
結果的には、先に言わなくてよかったと思うべきか。

2年ほど前に、CEROの発表をききにいったことがある。

>テレビゲームとレーティングの社会受容」調査レビュー
〜テレビゲームのレーティングを社会はどう捉えているか〜
https://www.digrajapan.org/modules/eguide/event.php?eid=27

以下、このときの自分の感想いろいろ。

>「表現」というとき、言葉にならないような(伝達の通常の回路を通さないような)形で、誰かに何がしかを伝える、という目的に従事してるとゆーのが、大雑把な定義としてある。
>なので。「ゲームの中で人を殺すのが子供に影響あるわけねーだろププ」て端から門前払いで「ゲーム表現は無害だ」みたいな態度は、つまり誰にも何の影響を与えることも出来ないと諦めてるわけで、「表現」であることを自分から放棄してる。なので、「どんな意味でもゲームは無罪だ」て主張するなら、そういう意味合いでの「ゲーム」は「表現」としては存在価値がないのであって、「表現の自由」を主張する根拠も持たない。

俺においては、「表現の自由」については、この程度の理屈しか持ってないし、それで十分だと今でも思ってるんですけど。

>ゲームとして遊ぶのに、別に「表現」でなくても問題ない。血しぶきがなくても、リアリティに欠けてても、将棋も囲碁もチェスも高度な戦術や駆け引き(を介した実感)が存在するし、むしろ対戦相手の血や肉体的苦痛を見ずに済むから「ゲーム」なので
CERO大本営発表を聴きに行ってきたのだけど。
>まぁ、世間との折り合いをつけるための仕組みだから仕方ないんだけど、そーゆー話は全く出てこない。多分、意識すらされてない。5000円する報告書を買って読んだけど、内部の、ゲーム業界な人たちほど、そーゆーのを考える気はないっぽい。
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=473384&log=20080831

>本当ならね、血の色を白くするという仕様は「現実の血の色を再現していないがゆえに反教育的であり反科学的であり反リアリズムであり、それゆえに反倫理的である」とゆー意見もあるはずなんだけど。
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=473384&log=20080902

>最近世間で何かあると名前が挙げられる「ひぐらし」は同人で(いっとき、東方シリーズすら無理やり名前に挙げられたよね)CEROの管轄外にあって、んで今後、何かにつけ話題にされやすいのってそーゆーのでは?と。したら「家庭用ゲーム外の同人作品のようなのは、ヒットしても数万本単位であって、その部分と家庭用ゲームについては分けて考えないとなんない」という回答で。
>「ひぐらしは移植され、移植作品はレーティングかけられてる。あるいはコードギアスは主人公はテロリストで人を殺して血も山ほど流れるけど、その部分はアニメでは青少年の見るに値する必要な表現として扱われて、それもゲーム化されレーティングにかけられてるが」ときき「メディア枠を超えた倫理の基準は取りざたされてるけど現実味がなく実現しそうにない」といった回答。
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=473384&log=20080903

ちなみに、このときの回答役が、上リンク先の新さんである。

>移植やメディアミックスといった越境が当り前の現状で、レーティングはメディアごとの特徴の差についてどこまで意識的に捉えてるのか、だったのだけど。
CERO基準でDに調整しても「ひぐらし」については製作側は問題ないと判断した。何かと叩かれる話題の作品において製作者の表現の自由は阻害されてない。てことは、世間が気にするような領域でゲーム業界のエログロ表現は上手いこと住み分けができてて、ジャパンの表現者にとって本質的な問題でなく、レーティングや禁止表現についてはどーでもいい。
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=473384&log=20080903

うんまあ。わりと絶望してたんですよ。

それから1年後のCERO発表。

>ゲームレーティング研究会「CEROの禁止表現およびZ区分表現の妥当性に関する調査」報告書レビュー (DigraJ公開講座09年7月期)
http://togetter.com/li/1076

多少なりとも突っ込んだ話になってるあたり、ちったあマシな発表になった、と考えるべきなんでしょうか。
けれども、ゲームメディアにおいて「表現」って何なのとゆー問いとの連携は、言うまでもなく、あまりにも遠い。
その遠さから、今回の話に戻る。

「業界主導の自主レーティングがあるために、いきなり、条例といったような乱暴な話にならないのです」という理屈は、一瞬にして吹き飛びました。

それで、あらためて、問いたい。

業界による自主規制というのは。

何を根拠に、
どういう基準で、
どのような意味があって、
行われているのか。
彼らの言うところの、守られている表現の自由とは、いったい、何か。
いったい、何を守っているか。

「法で規制されないため」

実のところ、それだけが、自主規制を行う根拠だったんじゃ、ないんですかね。

ねえ? いったい、誰のために、何を守ってたんですか?

実際に法で規制されてしまうとなったとき、それまでの自主規制の正当性の根拠は、すべて消え失せてしまったんじゃないんですか。

CEROが、性行為の描写を規制するのは、なぜですか。

いま、その理屈について問われたとき、彼らはいったいどういう返事をするんでしょうか。

実に、東京都知事と変わらないような、間の抜けたPTAのお題目のような、気合いの入らない常識論でもって、

「いや、常識として・・・社会秩序を維持するにあたって・・・」なんて言葉しか、出てこないんじゃないですか?

それは、「自主」的なんでしょうか?

結局のところ、自主性の欠片ももちあわせてないような「自主規制」を、見透かされてたんじゃないですかね。

誰かに何かを伝えようとする主体性を根拠にしなきゃ、表現なんてのは出てきませんよね。
表現をひり出す主体性からしか、自主的であるような規制は、出てきませんよね。
ゲームにとって、表現とは何なのでしょうか。そういう問いから発せられた規範ってのは、CEROの自主規制に、あるんでしょうか?