最近すっかりサボり気味だ

「REVEW HOUSE 3」が今さら届いたので。ニコ動のゲーム実況動画を延々と語ってるので、とりあえずそれだけで元はとれるかなーと。そこに加えて海外のルドロジーについての解説を井上氏がこれまた延々と語ってるので、海の向こうで「ゲームとナラティブの関係はどう捉えられてるのか」という話を知っときたい人はそっちの入門編にも。

 つかルドロジーで検索したら、前よりずっと増えたね〜。いいか悪いかは別として。

『文芸批評家のためのルドロジー入門――ゲーム定義のパースペクティヴ』
http://www.scoopsrpg.com/contents/Ludology/Ludology_20090130.html

 気が早い内容だが、ようするにそういうことで。

[研究動向]──発展するゲーム学──
http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/text/2006/11/game_study.html

 下のは明らかに自作自演だww

 上のようなルドロジー輸入の流れだと、ホイジンガがどういう出自で「ホモ・ルーデンス」を書いたか、という話は必須なのかもしれない。検索すればいくらでも出てくるが、オランダの人で、そのオランダの「北方ルネサンス」の絵画・文学研究のなどから、いわゆるルネサンスを「近代の幕開け」じゃなく「中世の秋(実りの収穫の季節)」だと指摘した、19世紀教養圏の人だ。んで、その「中世的であるような文化・政治」から「遊び」を見出して「遊ぶ人=ホモ・ルーデンス」を語り、その文脈から早い時期にナチス批判を行って(「朝の影のなかに」)、ナチスがオランダを占領した後に軟禁されたまま生涯を終える。

 以前、白川静が「遊」という漢字の語源を語っている文章で、それがあまりにホイジンガじみてると感じたので白川静でもホイジンガの影響を受けてそのまま書いてしまったのかと思ってたのだけど、こないだ松岡正剛白川静」を読んで、んなこたーない白川静自身の道を辿って「遊び」を語ったのだ、などと、あっさり改悛させられたので一応書く。むしろ日本流の「遊び」論の発火点にでもなればいいのに。

 あたし自身は、ホイジンガ白川静の違いを語れるほど読めてません、と逃げつつ、「遊びの行われている領域」などでずいぶんと違うのかもしれない、と思った(松岡正剛による誘導で)。囲い込むホイジンガと、「道」と並び結びつくものとしての「遊」とする白川静、のような。それは「神話が直列の歴史とならなかった中華圏」とゆー話でもあり。て、すっかり松岡本の影響下だねえ。