いたる絵

 体は五感で見出されるが顔は視覚とすれ違う。人の顔を見出さなくても鳥や魚と目が合うこともある。五感と意味の狭間から抜け落ちるのが顔だ。顔は視線を捉えないで文字と紙の関係の紙のように背後で全体と繋がる。

「永遠の現在」の某記事で強調しときたかったのは「立ち絵は<擬似三次元空間・仮想現実世界内の立体像の模写>という一種類の形式ではなく、様々な文脈の寄せ集めであり過程であり錯綜である」という事実だけで、他の話は忘れてくれたほうが有難いが、その雑多でまとまりのないものを一元化させたのが顔だ。

 ビジュアルノベル、雫や痕や東鳩を見ると人物は全体に遠近法的構図を守ろうとしてる。人物は文字のバックに描かれる挿絵の一部として一元的画面構成に組み込まれた。画面を機能で分割しなかったのがVNの特徴だ。
 VNからAVGの形式に戻るとき、『WHITE ALBUM』は一元的な読み物を止めたが、東鳩をパクったONEは画面構成をAVG風にしつつ一元的な読み物であることを維持した(一応、TOPCATなりミンクなりProject-μなり「読み物ゲーム」でも画面構成は種々雑多であってVNとAVGの二択ではない)。結果的にその画面の統一を引き受けたのが「いたる絵」になる。

士郎正宗桂正和らの絵は、典型的なキメラであることがわかります。女性らしさを強調したボディは、大変写実的な手法でディテイルアップされ、まるで写真のように描かれているにもかかわらず、首から上は旧来のまんが的な、記号的な表現でデザインされており、明らかに別の思想から生まれています(中略)。このようにして、異なったコンセプトの絵がひとつの画風に統一され、違和感なく存在しているというのは、よく考えると驚くべきことです。(『美少女の現代史』P150-151)

 もちろん「いたる絵」は統一されず違和感ありまくりだった。Hシーンの体には異なったコンセプトを違和感なく同居させる手法は受け継がれていなかった(上記の指摘自体も実際の例示を見ると簡単に大友克洋に結びつける前にスクリーントーン技術の発展の話と関連して語らないと異なる価値観を直線に結びつけることになって拙いんじゃないかと思うのだが)。しかし逆に、典型的な「美少女」の絵柄から見ると随分と先祖がえりしたプリミティブな少女絵がエロゲーに紛れ込める環境が整ったことで「異なるコンセプトがひとつに統一された画面構成」が成立する。

 続く。