演劇的というわけでもない話

 冬のライオンキャプ翼じゃなくてアカデミー賞な映画のほう。イギリス史劇の舞台の映画化つーことで当然のようにシェイクスピアを踏まえて見ろよと脅しがかかってて、冒頭でリア王の名前を出してみせたりする。

 そーゆー話だから台詞がイチイチ芝居がかってるわけだけども、映画だから(現代の舞台だから)「芝居」がそのまま「芝居」で、前半は虚実交えましたな台詞の応酬が良い感じでこっちの神経をガリガリ削りにくるのだけども、後半になると皮が一枚剥けちゃって、主役であるヘンリーは「芝居」が続けられなくなる。個人的にはそーゆー小細工のせいもあって微妙に食い足りないのだけど、その「芝居」を巡る全体の転換点がフランス王の寝室で、という話。

 リア王やリチャード3世だと、フランス王とその軍隊は話にオチをつける機械仕掛けの神で、つうか後々絶対王政に至るような「歴史上のフランス王」自体がシステムで組み上げてった「機械仕掛けの神」そのものなんだけどさておいて、ここでのフランス王はそれらを踏まえて「芝居に幕を引く」役割を請け負う。

 それまで部下や神父や使用人の見ているようなオープンな場で芝居がかった駆け引きの台詞を積み重ねてたヘンリーに対し、フランス王は寝室という密室で、幕の影にヘンリーの王子達を潜ませた舞台をしつらえる。幕の背後で息を潜める王子らはつまり観客で、ヘンリーが王子らに裏切られるのと役者と観客として世界から切り離される(ヘンリーは役者にさせられると同時に舞台から引き摺り下ろされる)のとがワンセットになってる。オープンな場から密室に切り離されたとき、演技は演技たりえずリアルな感情を滲ませるような演技となってしまう。

 一方で映画の前半も後半も演技が演技のまま一貫してんのがアキテーヌ女侯エレナで、個人の裸の心情や来歴なんてのから切り離された演技でもって台詞が組み上げられてるんだけども、つまりスタンダードなヒロインで。映画的な演劇的であるヘンリーと演劇的な映画的であるエレナとの家族愛やら夫婦愛やらのホームドラマじみたセセコマシイ話となってしまうわけだが、そういう軸に話を引っ張り込んでしまうのはフランス王という機械仕掛けの神によるメタ構造のせいで。そーゆー舞台を仕掛けてるのがエレナでもあり、だから歴史の中の王であるようなのを人情の世界に引きずり込んだという意味でエレナの勝ちなんだけど。

 眠いので続かない。