「劇場版 艦これ」

TVアニメで、おそらく製作者自身が諸般の事情で「失敗した」「やり残した」と判断した部分を全面的にやり直した、ほぼ100%「TV版のやり直し・リベンジ」。そのため、時系列、作品世界観としてはTV版の延長ではあるが、TV版とは解釈も設定も微妙に異なる。一番大きいのは吹雪の位置づけ。
良かったのは、作り手サイドが迷いを捨てやりきったと思えるところ。TV版で諸事情に振り回されて迷走していたのが一転して吹っ切れているなと感じた。評価は分かれるだろうが、やって良かったと言える作品だと思う。
欠点としては、リベンジに全力を注ぎこんでいるので、それ以上の作品としての広がりや切り口は獲得しえていない点。元よりファンサービスであり原作を知らない人間が見るようには作られていないが、絵としても序盤の戦闘以外はほぼ見るところはなくシナリオも大半がよくある展開の合成で新味はない。
とはいえ序盤の戦闘は十分に一般性を獲得できていると思うので、後述するが、そこが突破口になればいいと願っている。
 
以下ネタバレ。
 
 

TVアニメ版が迷走した背景

については以下を推測。TV版ネタバレ
 
・3DCGでの戦闘シーン作成を採用した
・既に大きく拡大していた二次創作に配慮して、設定をぼかしたまま流そうとした
・原作ゲームの声優をそのまま起用した
・原作ゲームの原案をシナリオに流用した
・軍事・歴史部分は大きくは取り上げない方針で、判断を先送りした
 

3DCGの採用

は、資金繰りとスケジュール、さらにはシナリオ展開の制約まで含めて、作品の製作環境を大きく圧迫していたと推測される。
金がかかるのは自明としても、3Dを扱える現場はそう多くはないだろうし、スケジュールがひっ迫した場合に至急で分業に回すのも難しい。そしてCGモデルを用意できるキャラ数は限度があり、戦闘シーンに出せるキャラそのものを限定せざるをえなくなる。シナリオは「戦闘に出せるCGキャラ」から逆算して組み立てていかざるをえなかったろう(一方で「出撃できない大和」や「遠征失敗する六駆」のエピソードは「CGモデル戦闘は発注できない or 間に合わない」前提から組み立てられたと思われるし、可能な限りの逃げ道は作っていた筈ではある)。CGに移行するのが時流とはいえ、この製作事情は結果的に迷走に拍車をかけたと推測する。アイドルダンスのごとく2Dと3Dのパートの分離分業を基本とするならともかく、艦これのソレはバストアップで芝居するとなれば2D、艦隊運動となれば3Dとカットの分担と組み合わせが細かく、艤装のモデリングも含めかなり手間ではなかったか。
TVアニメ最終話は「どうせ破綻してるし好き勝手にやっていいよ」という指示が飛んだとしか思えないハチャメチャぶりだったが(原作からもシリーズ構成からも切り離して最終話を単体として見るなら、デタラメな、しかし自由気ままな作りは嫌いではない)、おそらく、上記のスケジュール破綻の帰結としての、あの最終話だったのだろう。
 

二次創作への配慮

おそらく、ゲーム側からは「アニメで『正解』を示すことで、既に大量にある二次創作の自由な解釈の作品群を排除するのは避けたい」意向があったと思う。昨今の時勢ではアニメから入った新規層が古い二次創作を読んで「原作と設定が違う」とクレームをつける類のトラブルは充分に予想されうるし、二次創作の支持に負うところが大きい原作ゲーム運営としては、そうした混乱を忌避したかったのではないか。
また、ゲームの設定自体、あくまでゲームシステムと船の擬人化の表面部分が先行し、設定背景はきっちりと全部を固めるでもないプロットレベルを後から付け足していたと思われ、そうした「途中で建設を放棄した原作シナリオ」より、様々に膨らんでいった二次創作の広がりを生かしたい、という判断もあったのではないか。
上記の推測が当たっていたとした場合、最も「とばっちり」を受けたのがアニメの実製作スタッフ。
もとより、設定をボカしたままでは、たとえば艦娘以外の登場人物を登場させた場合でも、両者の関係すら描けない。同じ人間同士なのか、人間と使役される機械の関係なのかすらハッキリせず会話の組み立てすら支障をきたす。(艦これ二次創作ではそこに独自の設定を創出することで、様々な形で掘り下げて描く例が多々ある)
「設定がアバウトなアニメ作品は過去にも幾らでもあるし、十分いける」とGOが出たのかもしれないが、その場合、花田十輝という人選は不適切だった。花田は基本的に「少女漫画的な」掘り下げ方をする。「やおい・BL二次創作的」でも「ギャルゲー的」でもいいが、キャラクターの内面の掘り下げに注力することで話を組み立て、それゆえ「原作を壊さない」という評価を受けてきた。いわば二次創作的態度で不足部分を補っていくスタイルであり、その手法でキャラクターを掘り下げる以上は背景設定や過去の経歴をボカしたままは難しい。というより花田脚本はキャラクターを能動的に動かすより受動的な態度で過去の来歴、キャラクターのオリジンに話を繋げることを積極的に好む。忙しくて他に思いつかないのもあるだろうが。
では花田以外なら艦娘の設定をボカしたまま描くことは出来たかといえば、出来たろうとは思う。が、それなりに話を組み立てていく過程で「原作にはない新設定、新キャラ、新展開」が物語展開の赴くままに発生し、それはそれで「原作厨」の総攻撃を受けた可能性はある。例えばTV4話は原作ゲームから素材を拝借して組み立て、オリジナルの物語として笑いと涙、日常と戦場、生と死の両極を「この世界の片隅に」もビックリの剛腕で20分強にまとめ上げ戦争映画の趣すらある完成度の高さだったが、見事に総スカンを喰らった。
視聴者の過剰な行動への配慮が製作現場に丸投げされる現状、メディアを変えることで当然発生する「原作からの変化」(メディアが異なれば同じ台詞、同じ展開でも意味も位置づけも自動的に印象が変わらざるをえないため、本来なら「原作を生かす」ためにこそ台詞や展開、キャラクターの性格や行動を適宜変更し調整しないわけにはいかない)を最小限に回避すべく、花田の「やおい二次創作的」な態度は歓迎されてきたが、艦これTVアニメでは「二次創作同士でかち合う」羽目に陥り、既存の二次創作を守るために「花田十輝という二次創作性」は排除されなければならなくなった。
導き出された幾つかの解決策の一つが「原作であまり注目されてないキャラの改変」としての睦月および吹雪だろう。睦月はゲーム原作からかけ離れた、ほぼオリジナルのキャラクターとなっている。吹雪も同様で原作から大幅に変更されたあげくにゲームの側がアニメに合わせた改変を行い別キャラ改二吹雪が誕生する。「原作に下手に触れない」ために既存の二次創作での膨らみが大きい人気キャラの改変を回避し(それでも大井他で揉めたが)、そこそこ自由に動かせるキャラを確保する。
もう一つは「現実世界にリンクした提督」だ。背景世界を掘り下げられず苦慮した果てに「現実世界のお前ら」というメタフィクション構造に掘り下げるべき「吹雪のオリジン」を求めたのだろう。作中世界に手を加えることが許されない以上、そこしか先に進む道は無かった。
 

声優の扱い

音声は基本的にはキャラクターや作品の多様な側面のうちの一つでしかない。原作のキャラクターを忠実に再現したい/作品の主題を再現したいと意図し、メディアを変える際に切り口が変わるのに合わせて声優を変更すること自体は手段として十分にありうる。
しかし一方、原作艦これは映像面では静止画像数枚しか情報がなくキャラクターのイメージ形成は音声に負うところが非常に大きい。そのため同一声優であってさえゲーム中の新録台詞によりイメージが大幅に書き換えられ印象ががらりと変わるのも確かで、複雑な思いを味わった提督も多いと思う。原作環境からしてそうである以上、TVアニメ化にあたり役者を変えない判断が一概に間違っていたとは言い難い。またメディアミックスについて回る声優事情は製作スタッフは百も承知のはずで、実際、メインキャストの吹雪も睦月も、「声優を変えずに演技を、キャラクターを変える」ことでメディア変更に対応する方策を取り、主要部分では「作品に合わせた役作りをする」態度をアニメ製作現場で優先させていたことが伺える。
そうした基本は踏まえたうえで、躓きの遠因として、艦これでは一人の声優が複数の役柄を掛け持ちしなければならず、本来ならば複数の声優でそれぞれが分担している「各キャラクターの役柄の理解、演技」の仕事が少人数に集中した。脇役ならばまだしも、名前持ち二役を演じるなら二人分の仕事を掛け持ち、三役を演じるなら三人分の仕事の掛け持ちで、負担が重いことには違いない。TVアニメでは流石に吹雪だけは掛け持ちには至らなかったが、他は殆ど全ての声優がそうした掛け持ちを請け負っている。
声優の負担増はこれも製作現場では判っていたはずで、脇役については過重な役割を求められない形で組み立てられていたが、例外が避けられなかったろうし現場の時間も取れなかっただろう。例えば大井北上のコンビは大井を主要な役柄として採用した結果、北上は置物と化した。
そしてメインキャスト睦月役の日高里菜が担当する如月。アニメ収録の頃には原作ゲーム音声の収録から年月も経過し、如月の出演は1話限り。日高は睦月の役作りが主要な仕事としてあり、如月については「どういう役であったか」を殆ど補助に任せてしまった、あるいはそのような指示の元に動いたのではないか。脇役の「原作キャラらしい演技」については原作ゲームの担当者に投げてしまい、それを、どう作品に組み入れるかまでアニメスタッフの手が回らなかったのではないか。如月の轟沈台詞は字面もニュアンスもほぼ原作ゲームそのまま、「忘れないでね」の一言は、いったい誰に向けたのか何を意味するのかすら全く分からない、宙に浮いた台詞となった。
 

幻のゲーム原案を採用した結果、

TVアニメではミッドウェーの戦いをシリーズクライマックスに位置づけ、赤城をクローズアップする。そのため空母と艦載機が全体構成上の中心となり、戦闘はしばしば空戦の比率が高くなった。原作ゲームでも新システム導入のたび空戦と海戦のバランスは行ったり来たりを繰り返すが(某イベントは陸上基地だけでボスと戦っていたし、現時点でのゲームバランスもほぼ空戦優位でルート制限でもないかぎり駆逐艦の出る幕はない)、TVアニメでも空戦優位として場面を設計し、出来上がったものとしては「これって船の話じゃなくて飛行機の話なの?」となり、最終話に至っては吹雪よりも艦載機の妖精のほうが活躍としては目立つ羽目に陥った。
実際の太平洋戦争で「艦隊戦の時代から空戦の時代に移行」したのをなぞった形ではあるが、艦これ自体は当初のゲーム設計としては「現実ではありえなかったはずの艦隊戦」をあえて蘇らせるゲームであり史実にならって空戦の時代にしてしまっては「艦」を主役に出来るはずもない。吹雪に「防空駆逐艦になる」と言わせて話に絡めようとしても後の祭りで、やることの無くなった艦娘はメインバトルは妖精さんに任せればよいとばかり、ドロップキックに大回転エビ反り魚雷攻撃と傍若無人の限りを尽くすこととなる。
 

軍事・歴史への言及

おそらく「全体に背景設定はあまり掘り下げないで行く」方針が先行し「あまり深く突っ込まないでも大丈夫だろう」という判断の元、取扱が先送りされ、後から地雷原の真ん中に取り残されてる事態に気づいた、という順序ではなかったか。
TVアニメ放映当時語られた「二次大戦日本軍の扱いが難しいから背景をボカさざるをえなかった」という考察に対し疑義を唱えるのは、TVアニメ版の軍事ネタが希薄で粗雑な割に大筋の流れだけは史実を何となく追いかける「薄っぺらい態度のまま戦争の流れに触れる」作りとかみ合わないため。
日本軍の扱いが難しいからボカそうと判断する割に歴史上の戦いを(大した意味も持たせずに)追うことに躊躇せず、一方で細かい軍事ネタを拾う気配がない。危険なネタを回避する場合、軍オタのように細部への粘着的こだわりに逃げ込む一方で戦争という事象全体を見渡すマターに触れないのがセオリーだが、TVアニメは「原作ゲームのシナリオ原案を生かす」というだけの理屈で大した方針もなく危険なエリアに躊躇せず踏み入っている。
なお原作ゲームプロデューサー田中謙介がTVアニメ製作の現場に深入りし自分の原作を実現させるべく煩く介入したとの見解について、この可能性は低いとして退けるのも同様の理由による。「ゲーム艦これがヒットするまで日本海軍の駆逐艦の名前がここまで認知されることもなかった」とされる程度には、田中は気質としては軍オタ兵器オタの部類で、その手のオタが現場を迷走させるほど介入したにしては軍事知識ネタを無暗やたらに突っ込みたがる軍オタ臭が極めて希薄。先述した「二次創作に配慮」「声優の演技に協力」などの、あるいは別方面での間接的弊害は可能性として疑いうるが、TVアニメの製作方針に直接的な介入は無かったとみる。
話を戻して軍事・歴史ネタの扱いだが、原作ゲームの他の類似ジャンルと比較した際の独自性、例えば兵器を擬人化するにあたりパワードスーツ的な翻案でなく和装に解釈しなおす、兵器部分より煙突などの機関部を特徴として残す造形から解釈を拡大する、駆逐艦という「弱くて目立たない艦」が大きくクローズアップされるなどについて、アニメーション表現としてどう調理し表現として捉えるか全く考慮から外されている点からも、当初から量産ベルトコンベア企画として位置づけられていたのが推察される。おそらく「少女の戦いと友情と成長と」ぐらいの漠然としたイメージで、ストライクウィッチーズの後追い的な枠組みだったのだろう。
しかしシナリオ原案にゲーム没シナリオを採用したこと(おそらく製作スケジュールの都合や、原作からあまり離れられないメディアミックス請負アニメの体制等々によるものか)、背景世界の描写が不可能になったことなどの縛りから、逆に「艦これの元ネタである戦史」しか骨組みとなる素材がなくなってしまう。
提督なり秘書官長門なり、軍事作戦を判断し指示命令する司令官を視聴者の視野に入れる時点で「登場人物が何を考えて命令するのか」つまり「戦争行為を主体的に判断し実行する場面」は見えてしまっている。一方、二次創作への配慮からか背景世界が描かれないために「攻撃されて被害が出ているので自衛のために戦う」、宇宙戦艦なりロボット物なり古今東西どこでも見かける黄金パターンの説明も実質的に封じ込められている。
結果、歴史上の太平洋戦争の記憶に絡めた筋が否応なく前面に浮上し。ここまで追い込まれて、ようやく「二次大戦ネタを露骨に使うわけには行かない」という縛りが事あるごとに効いて身動きが取れなくなったのではないか。
 
 
以上ざっと追いかけてみたが、迷走の理由をまとめると、最初から志が低く想定される完成形が貧しいため、想定外のトラブル(もっとも、空母や空戦を大きく取り上げたら艦娘が目立たないなど少し考えればすぐ判るし、対策としてミッドウェーをネタ元から外す程度は簡単にできるが出来てない、想定外というより無為無策なだけ)に場当たり的に対応するしかなく、失敗するべくして失敗したといえる。
では、ここから劇場版へはどう対応していったのか。
 

参考までに、TV版への自分の反応。

"アニ艦、きちんと面白がってる人がいたので見る気になったのに1話冒頭30秒で笑いがこらえきれず、お茶の間では見れないと視聴を打ち切った。艦娘だけならまだしも深海棲艦までアニメキャラデザ美少女にリファインされて水上スケートしてくる絵に榊原良子ポエム朗読被せてくるとか卑怯すぎるだろう"
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20150131

"例えば「実は人間が艦娘になるんです」とか一つに「公式宣言」してしまったら、既に発表されてる二次創作の多くが、後追いで「公式と異なるオリジナル二次創作設定」というレッテルを貼られることになり、まあ、今までの「オリ設定二次創作」に対する扱われ方からして幸せになるとは思えない"
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20150409

"僕らがイメージする原作側の注文って言ったら「吹雪はこんなキャラじゃない」とか、「原作と違うことに怒る」じゃないですか"
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20150410

"ゲーム台詞の使い方がひどい、という話で言うなら、如月の轟沈台詞が一番ひどいと思いました"
"如月の台詞の挿入が酷いのが典型だったが、「誰に向けて話しかけてるのか」がまるで何もない。「如月のこと、忘れないでね」って、誰に向けての言葉だったのか。ゲームだと、そりゃ画面の前の提督に向けての言葉だが、アニメのお芝居の中の台詞として、誰に向けてるのかが全く不明"
"睦月と「覚えてる」とか「忘れてる」とか、そういう遣り取りが直前なり伏線なりにあったならさ、「忘れないでね」って意味あるのさ。別に睦月と如月のやりとりじゃなくてもいいんだ。吹雪と赤城の間のやりとりの中に織り込むのでも、大井や北上との間のやりとりでもいいんだ"
"客の視線ばっか気にして、同じ舞台の上の登場人物の間で対話しないんだもの。そら、クズ脚本て言うさ。「大好き」って台詞で押し通したかったら如月にも「大好き」って最後に言わせればよかったじゃないか。監督か演出が「いやそこは原作台詞で」って改変させたんかね?"
"まあ100歩譲って、脚本の意図を理解してない音響監督だか声優だかが原作台詞にこだわったんだとしようや。脚本は悪くありません、と。でも、俺にはそう思えないのが、吹雪と赤城の会話も脈絡がなくてさ、結局んとこ、どこまでもブツ切りで、脚本ががんばってる気配が最初からないんだよな"
"如月の死に物語上の意味があるか、なんて話じゃないんだ。如月の言葉が宙に浮いてるってのは、如月の存在自体が宙ぶらりんのままで、そのまま流れ作業で処分しましたが、何か? って、そういう見せ方してるわけだが、それで「如月の死に物語上の意味を見出すのはどうこう」とか説教始めるほうが糞だろ"
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20150416

"4話の戦闘シーンで良かったこと。まず対空戦闘が発生してない。対艦のみ。艦載機を相手に戦うの、現時点でイマイチ上手くいってるように見えない。つか、まがりなりにも船の戦闘なので艦隊戦やってほしいなあと思うし、艦これって「現実には起きなかった艦隊戦重視の世界」だというのに何で対空ばっか"
"4話の戦闘シーンの良かったこと、吹雪が被弾で立ち止まったりしてない。機動しながら被弾して、被弾に自分に気づかず、足が海中に沈みかかってるのに気付いて、初めて損傷と、損傷による回避行動への影響に気づく。これ、「普段は機動的に戦闘してる」のじゃないと、回避できない絶望が出てこないの"
"4話はあと、台詞では作戦どーこー言わない。いや真面目に戦闘するシーンじゃないからだけど、陣形を叫んでも絵が間抜けなので逆効果なんだよねえ。そういうのやらなくて、台詞はあくまで対話形式で綴られててですね。だから艦と艦の相対の関係しか示唆しないわけさ。「前に出過ぎ」とか"
"妖精さんが艦載機のパイロットでしか出てこないの、すごく中途半端な上に嫌な設定なのでやめてほしいかなあ、てのは思う。いつ静で妖精さんが輝いてたのはカタパルトを操作してるときとかだったなあと思うし。"
"結局、艦載機が自立で動いてるのか、ある程度艦娘のコントロールで操作してるのか、てのが不明でさ。荒天でも艦娘の視界の範囲ならいけそーな気もするし。空母がらみは本当に色々となんつうか整理されてないなあ。"
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20150418

 

TVアニメ版のリベンジとしての劇場版

以下、ネタバレ。
 
・CGの位置づけの変更
・艦載機
・一航戦の扱い
・「艦娘と深海棲艦」の関係が明らかに
・現実の戦史の位置づけ
・吹雪の役割
・如月
 
 

CGカットが細かく埋め込まれる形に

CG部分は、艤装のクローズアップ、顔の見えない背後からのカット、画面奥から接近して画面全体が波で覆われた直後に2Dアップに切り替わる等々、コンテ段階で全体設計された上でCGを使うのが妥当なカットのみを割り振って作業分担されたと思われる。2D3D協業という考え方はTVアニメからの正統進化で、少なくとも戦闘場面においては設計は練られていたと見受ける。序盤に労力の殆どを注ぎ込んだとみられる一方で後半70分の会話シーンは取り立てて絵の工夫もなく後半作戦についても序盤の戦闘シーンとの描写統一を図る気もなく思いつくまま手なりで絵を作ったとみられ、割り切りが非常にはっきりしている。
 

飛行機は脇役の位置づけに

一番の見どころとなった序盤戦闘はソロモン夜戦に基づいておりTVで問題となった航空戦は最初から無し。ラスト近辺の戦闘も駆逐艦巡洋艦、戦艦での戦い。決戦時の空母および艦載機の活躍するシーンについては、戦闘場面としては早めの時間に処理している。
また、艦載機の扱いについて空母各人が判断の上で一定の意図の基に発艦させているシーンが多く、妖精が自主判断する見せ場を用意しつつも、空母からの戦術指令がまず先行していることが判る。TV版の「艦娘が主役だか妖精が主役だか判らない」戦闘シーンから一転し、艦娘が戦闘の主役であることが印象付けられた。
 

一航戦加賀の扱い

TV版の赤城の役割受け持ちに代わって加賀が艦娘の来歴について受け持つ役となり、ついでにTV版で掘り下げに失敗した加賀と瑞鶴の絡みもリベンジを試みられている。赤城の記憶が歴史上のミッドウェー戦と結び付けられていると推測されるのに対し、加賀のそれは艦娘の深海棲艦との関係。TV版からの方針変更を請け負うに当たっての誘導役となっている。
 

「艦娘と深海棲艦の関係」が明らかに

TV版やゲームで色々とボカしたまま進めているものが映画のシナリオではあからさまに台詞化されている。会話内容の半分以上がこの説明だが映画をわざわざ見にいくファンとしては今さらの暴露ではあり、あくまで後述するシナリオ展開のための確認作業となっている。
ちなみに、劇場版のシナリオの「謎」である、なんで海が赤くなるのとか、なんで艤装が壊れるのかとか、なんで最期に深海棲艦消えるのといった説明は一切なく、上記の「真相」で説明がつくものでもなく、投げっぱなし。
 

現実の戦史の位置づけ

戦闘の組み立て、特に序盤戦闘シーンはソロモン夜戦をアレンジしたもので脚本分担としては田中担当と思われる。TV版がシリーズ全体でマクロの流れを追ったのに対し、劇場版序盤のそれはミクロの流れを追っており、社会的影響の議論から距離を置いた視界範囲に歴史とのリンクを留め置く典型的軍オタ歴オタ味付に移行。
一方のメインシナリオでは現実の艦艇の吹雪と主人公の艦娘吹雪のリンクが提示されるが、この設定は吹雪についてのみの特別扱い。素直に受け取ると他の艦娘は深海棲艦との関係だけが強調され逆に実在艦との繋がりは見えにくくなる。
「現実の軍艦から切り離されて消費されている艦これに対するメタフィクション的な切り口」と深読みすることもできなくはないが、吹雪と深海吹雪との間で交わされる会話以外のパートではそこまでの示唆はなく、あくまで「吹雪のみに現実とのリンクを収束させる」(吹雪以外の艦娘は現実とのリンクが外される)ための描写と見ていいだろう。原作ゲームのように多聞丸がどうとか言い出すことも無く、日本海軍や第二次大戦といった枠組みは一掃された。
 

吹雪の役割変更

TV版と劇場版では吹雪の役割は大きく異なっている。元々、TVアニメ版の提督が「現実世界の提督」であったのは、アニメ内での世界観の構築も、日本海軍の艦艇という来歴に触れることも禁じられていたため、吹雪のオリジンとして「提督から選ばれた」(初期艦もしくは嫁艦的な意味で)以外の選択が無かったためだった。
劇場版作成にあたり、おそらく「二次創作に配慮して下手にボカすのはやめよう」という見直しが決まる。そうなれば評判も悪かった提督を出す必要もない。舞台を鎮守府から泊地に移動させて提督には穏便にフェードアウトしていただき、吹雪のオリジンは日本海駆逐艦に求められ、その上で睦月如月を主役としたシナリオに合わせて「艦娘と深海棲艦の関係」という劇場版の大枠に沿った存在として語りなおされる。
結果、吹雪は作中ほぼ舞台装置、ギミックで終始しており、出番こそあれどキャラクターとしては機能してない正体不明な何者かとなった。TV版の吹雪やゲーム原作の元々の吹雪が好きだった提督にはご愁傷さまとしか言いようがない。
 

如月

言うまでもなく睦月と如月がストーリーの主軸となった。テーマは如月が述べている通りTV版3話で出来なかった「ちゃんとお別れを言う」。そのリベンジのために如月を登場させ、如月を登場させるために深海棲艦と艦娘の関係を劇場版向けに設定し、吹雪の位置づけを変更し、睦月と如月との間で物語は完結した。
本来はTV版12話で深海如月が出る予定だったのが変更され、劇場版はその焼き直しではないかという推測については、吹雪の位置づけについても赤城の位置づけについても深海如月と絡める要素がないので可能性は低いとみる。12話の如月の髪飾りは「劇場版に如月を出すのを決めたので伏線のつもりで急きょカットを突っ込んだ」のほうが説明がとおる。
 
 
劇場版製作スタッフの意図をまとめると、こんなところだろうか。
 
 

シナリオ評

上記で製作した結果、アニメ艦これは徹頭徹尾「ゲームの映像化」として整理され、プラスアルファに繋がる要素は一切が消去された。「リアル俺ら」であった提督はフェードアウトし、泊地で話が終始して本土鎮守府は見えなくなり守るべき対象はTV版以上に見えなくなった。赤城が言及しかけた史実の記憶は消え去り艦娘の存在の由来は深海棲艦に求められ、深海棲艦の由来も艦娘として処理され外側へのリンクはない。外部リンクを託され艦の記憶を垣間見るかに思えた吹雪はしかしその先に踏み込むことなく、深海吹雪との対話に注力する。
現実とのリンクを一切断ち切るスタイルは同じく田中原作原案の「いつか静かな海で」とだいぶ異なり、原作サイドの意図というよりは諸事情への配慮及びアニメ製作サイドの判断が優先されているように見受ける。TV版からまとめ直していく過程で、現実での史実ネタ兵器ネタに対する言及の仕方、配慮が改めてクローズアップされ、不可視化する方向にまとめていった可能性も高いが、花田十輝的な内面語りに話を落とす作りだとそもそも外への広がりの観点が抜け落ちがちなので、花田の手なりで説明しても特に問題ないと言えるだろう。
シナリオは睦月と如月の別れを描くことに全力が注がれており、加賀と瑞鶴、吹雪と深海吹雪、それぞれの対話内容も大半は睦月と如月の前座の扱いで、これをもって「ゲーム原作の真実が明らかに」と言われると違和感がある。「深海棲艦を倒すと艦娘に」あたりは、空母運用時にボーキ消費が大きいのをもって「赤城はボーキ丼をむさぼり喰らう」に近いゲームネタの翻案で、そういうゲームシステム解釈で話を組み立てる路線自体はありうるとは思うものの、海が赤いとか海域クリアして深海棲艦が消えるとかいった部分ではゲームネタを投入するにあたっての「理屈をつなげてく説明」が一切ないなど中途半端で、使いたいネタを示威的にピックアップして再構成した、以上の感想は持ちにくい。「艦娘が轟沈すると深海棲艦に」のくだりも深海如月を出したいための説明なんだろうな程度に見える。
艦娘のキャラクターの深みを描くとしても、過去回想シーンでキャラの深みを演出する的なソレはイコール現実社会の複雑性に丸ごとキャラの由来を預けて依存することで成立するセオリーであり、何のために戦っているのかサッパリ判らないぐらい背景世界の描写が存在せず深海棲艦ぐらいしか「艦娘の外の世界」がないから深海棲艦に根拠を求める程度の本作では深堀にならない。
 
しかし一方、艦これ二次創作の過去の蓄積に臆することなく「二次創作と似たような話」をちゃんとアニメとして提示できたともいえる。すなわち「TVアニメこそが本家本元」ではなく「億かけて作った劇場アニメも二次創作と同レベル」という並列的な立ち位置であることを示し得たのであり、「肩の力を抜いて作った」という意味ではTV12話の回転エビぞり魚雷アタックに近く、そうしたカジュアルな姿勢は評価に値する。「睦月x如月の薄い本の新刊でたよー」と映画館に行列する楽しみ。艦これファンアイテムとして、良い位置づけだと思う。
 

作品評

実在艦艇へのリンクも絶たれ、艦娘と深海棲艦の戦いもエンドレスループのように位置づけられ、設定レベルでは煮詰まった閉塞感でどうにかなりそうな本作だが、突破口もまた提示されている。シナリオとしては最後のシーン、睦月と改めて再会する如月の姿の描写であり(いつの、どのタイミングのものかは不明だし、実際のシーンかどうかも不明だが)、もう一方は序盤の、労力と資金の9割方を費やしたかのような夜戦シーン。まあ何だかんだ言おうと戦闘がカッコよければそれ以外は全部ダメでも許されるとこはある。
 
その夜戦の主役として抜擢されたのが加古。艦娘の二次創作人気としては下から数えたほうが早いというか劇場版公開後もあれだけ目立った加古の話題は殆ど増えていないぐらい話題にならない加古が、序盤登場6艦の中で最初に紹介されかつ台詞も描写も最多。
加古の扱いが大きい理由はいくつか考えられる。
 
・戦闘シーン自体が尺が短く全艦に長尺は割けない
・元ネタの海戦で実際活躍
・映画の舞台が鉄底海峡であり「鉄底海峡重巡「加古」艦長回想記」の著者高橋雄次氏への敬意表明
・声優配置の都合で青葉衣笠は控えにまわり鳥海天龍は他の役柄もあるので次点、古鷹加古の二択となり好戦的な加古が採用
・古鷹加古は改二の艤装が目立つため艤装まわりの描写が映える
・可愛い
 
しかし、加古の位置づけはそれのみに留まらないように思われる。序盤ネタ元の夜戦では直後に加古は撃沈されており、ほぼ史実に沿ってアレンジされた戦闘展開は加古の轟沈フラグの示唆に思えてならず、しかも、(ふだんの目立たなさ、話題にされなさに比して)あまりにも活躍が目立つがゆえに、活躍すればするほど轟沈フラグを増やしていく。どうにか切り抜け泊地での平穏なシーンへと辿りついても轟沈への予感はあまりにも強烈で画面は不穏な空気で覆われ、決戦時も殆ど最後まで主要メンバーと同行しラスト十数分でどうにか加古がフェードアウトするまで、殆ど加古の圧倒的な存在感で画面が覆い尽くされていた。吹雪が設定上の主人公、如月がシナリオ上の主人公であるのに対し、加古は映画の主人公であった。初見時は映画の半分の時間は加古が出ずっぱりだと感じていたため、二回目に視聴した時に登場時間が体感より遥かに少ないのに驚いたほどだ。
 
なぜ他の人気艦を差し置いて加古だったのか。加古の通常時の人気の無さとも関係する話だが、加古は実は他の艦と比較し個性が薄い。鎮守府ではほぼ寝ており睡眠ネタが定番となっているが一方で初雪と違い戦闘には積極的に参加する。また嗜好がなく深夜までチャンポンで深酒し、かといって隼鷹やPolaのように酒を愛しているという描写がなされるわけでもない。鎮守府内での寝坊や飲酒がキャラクターを決定づける個性とはされていないのである。むしろ改二で強調されたのは加古の好戦的な姿勢だった。戦闘を指向するタイプで基本的には活動的なキャラクターである。にもかかわらず鎮守府内で殆ど寝ている(時報台詞も用意されていない)姿で描かれる。
おそらく、加古は寝るのが個性なのではない。
彼女は戦闘にしか興味がない。鎮守府に居ても戦闘時間以外は特にやることも思いつかないので、寝るか酒を飲むかしか、時間の使い方を知らない。別の言い方をするならば、艦娘として人間の姿を得ても、人としての生活や趣味嗜好に興味がなく、戦うこと以外を特に知ろうともしない。
およそ艦娘の多くは独自の個性を備え、その多くは人間の姿としての生活を、生き生きと暮らしているように見受ける。季節の行事に親しみ、仲間との交流を育み、場合によっては提督との交流もあるのだろう。
加古にも季節イベントの台詞は用意されている。ケッコン台詞もある。ケッコン後は提督との距離もそこまで遠くはないようだ。古鷹は隣にいて当たり前のように思っているのだろう。
だがおそらく、加古は戦場を第一の居場所としている。
だから、彼女だったのだろう。加古は戦場に外からの何かを持ち込まない。ただ戦うだけの艦娘として、そこにある。
 
そして劇場版で戦場に身を置くことで、加古はもう一歩踏み込む。
加古は艦娘の中では比較的古典的なデザインとなっている。金剛のような巫女姿に代表される和装スタイルでもなく、駆逐艦のように煙突が大きく目立つでもない。軽巡重巡勢は制服スタイルだが制服としてもセーラー服姿で、艤装も20世紀以来のパワードスーツ少女やMS少女に比較的近い「擬人化兵器」的なデザインだ。アニメ艦これは前述したように艦これの特徴であり個性でもあった和装姿や煙突姿についてはあまり興味を持たず、従来的なパワードスーツ少女に準じる形で艦娘を扱っているため、加古のデザインは相性がよく描写の基調として取扱いやすい。
一方、深海棲艦もまた和装や内燃機関的なデザインはあまり採用されず、基本的には生物と兵器の合成物として描かれ、また人間の一部分の戯画であるような深海の駆逐艦軽巡から、重巡リ級で初めて「人型」の姿をハッキリと取るようになると、その人間と兵器の組み合わせのデザインのオーソドクスな形が浮かび上がってくる。
意図したものか結果的にそうなったかは不明だが、重巡リ級はもっとも基本的・古典的なデザインであるがゆえに、同じく古典的なMS少女に近しい加古と、「似て」しまっている。改二となった加古が、偶然の産物だとは思うが「天使」古鷹の対となるよう(主にインナーまわりで)黒をフィーチャーしたデザインとなり、また古鷹の片目の「光」と合わせるようにしてか目の周辺に火花を散らすようになると、目から燐光を放ち黒く染まった艤装を身に着けたリ級の姿とますます近づいていく。如月のように「深海堕ち」するでもなく、加古は艦娘のまま深海棲艦・重巡リ級に近い姿となり、その姿でソロモン海戦でリ級と死闘を繰り広げる。
 
結果から言うと加古は沈むことなく、映画での実際の登場時間も台詞の量も加賀より少ないかもしれない。にもかかわらず加古の存在感は吹雪よりはるかに重く大きい。
吹雪が艦娘の希望であり願いであるならば、加古は艦娘の「現在」だ。
他の艦娘が人の姿でもって情けを深くするなか、深海棲艦が怒りや憎しみを募らせるなか、加古は人間的な生活から、コミュニティのそこから生じる様々な感情から、遠ざけるでもなく、近づくでもなく、そこに身を置く。
深海棲艦に堕ちるでもなく、しかし限りなく深海棲艦に近い姿の艦娘として、戦う。
ただ戦うものとして、今、そのときに、戦いの場に立つものとして、加古はそこにある。
戦う根拠を奪われようと。戦う相手を見失おうと。
守るべき国から切り離されようと。世界から居場所をなくそうと。
艦娘として。