宇宙英雄物語

 もしかしたら、『宇宙英雄物語』のコンプ掲載時の内容がコミックスで大幅変更されているという話は、いまどき向けに書いておくべきじゃないかと思ったのだった。

 僕は読んでないが『宇宙英雄物語』の雑誌掲載版は1話ごとにジャンルが変わる、つまり学園モノ、魔法少女モノ、ロボモノ、みたいな、連載を利用した世界観の強制変更が面白かった(なので連続するよう改稿されたコミックス版は今ひとつである)という話を10年来ずっと聴かされてきた。

 んで、先日それを主張する男に対して谷川流を説明するのに「ハルヒはよーするに君の言う雑誌版宇宙英雄物語的なモノです」と言って説明して、なんとなく了解を得てしまった、のだった。

 自分では今さら言うまでもないと思ってたんだけども、「イマドキのライトノベル的な」とか「ゲーム的なリアル」とか「メタリアルなんたらっぽい」とか「オタク自意識的な」とかそーゆーのの起源話をするとき、電撃の前身のコンプの人気連載であったていう文脈も含めて『宇宙英雄物語』がいちばん体現してるって、きちんと言うべきなのかな。「萌える」て言葉の意味が宇宙英雄の「燃える」が一番近い、てのも含めて。

 ちなみに『サマー/タイム/トラベラー』読んで最初に思い浮かべたのは『宇宙英雄物語』で。つか、小説のスペオペなんてペリーローダンしか読んでないので、話の粗筋に全く関係なくエピローグで涙滴型宇宙船の像だかにノスタルジーをかぶせてみせるなんてのは、宇宙英雄物語文脈へのリスペクトにしか見えなかった。

 んで、なんとなく思ったのが『宇宙英雄物語』を見なかったことにしたい文脈、というのがあるのかもしれないなあ、と。陰謀論ですが。

 なんせほら、古典SF礼賛のSFオタク万歳!モノだし。あげくに、そーゆーSFで冒険で〜の背景には、学園でTRPGで「燃える!」なオタク自意識がてんこ盛りで。

 少なくとも、ジュブナイルでしかない『妖精作戦』や普通にギャグ漫画でしかない『究極超人あ〜る』を引き合いに出してもオタクていう文脈は発見できねえだろと思う。あーゆー脊髄反射的ギャグやジュブナイル性質は自意識過剰性とは縁遠い範疇だと思うし。

 さらに言えば、エヴァンゲリオンなんかはアニオタよりは一般の裾野に広がってくような作品だったのを考えると、オタ文脈を捏造するなら「宇宙英雄物語的自意識」って言うのが、多分、正解。