つよきすPC版

よっぴー終わり。これでCG、Hシーン100%既読。EDは10で全部ですか?
とにかく出来いい話です。隙がない、という意味で完璧。唯一の隙はお題がツンデレであることぐらいですね。
ツンデレは「自分だけにデレデレ」という条件がありますが、これは「他の人に対してはデレデレしない」という描写を比較のため必要とします。そして、立ち絵メインでお話が進行するノベルADVは、このような多数の登場人物の描写はあまり得手ではない。
立ち絵表現では一人称を請け負う視点人物と目の前の立ち絵の人物との距離感は明確に存在しますが、一方で立ち絵で表現される複数人物同士の相互の距離というのは、視覚的には極めて曖昧です。現在では多くのノベルエロゲーで立ち絵表現の発展形として、立ち絵を動画的に動かしてみせたり、立ち絵同士のやり取りを立ち絵を重ね合わせることで示したり、様々な工夫が凝らされていますが、実際にどのような空間的な距離がそこに置かれているかを視覚的に描写することは出来ない。立ち絵を動かすのも、極端にディフォルメされた形に留まる。とりわけ、他のキャラクターに対して距離を置いているという描写を視覚的に説得力ある形で示すことは困難です。狭いモニターで横並びになってしまえば、仲が良くても悪くても相互の距離はそうそう変えられません。こうした視点人物以外の登場人物同士のやり取りを比較的上手くやってみせた例としては『もしも明日が晴れならば』での後ろ向きの立ち絵を使用した会話がありますが、これらもあくまで親密な距離をとれる関係の中での細やかな動きの描写に留まる。
ということで、「他の人にデレデレしない」という描写は完全にシナリオでフォローしなければなりません。少なくとも「つよきす」のシナリオライターツンデレをそのように描写すべきだと結論づけ、6人のヒロインの各シナリオ全てにおいて、男性主人公とヒロインのカップルが成立した後に、ヒロインが他の登場人物に対してデレデレしない、という描写を入れています。
ここで、ツンデレを扱うシナリオはメインの二人の外側の事情に目を向けざるを得なくなります。ノベルエロゲーのシナリオの流れとしては実は逆なんですけどね。まず男女二人だけの恋愛世界が作り上げられていくために物語が要請され*1、物語メディアとしての性格が強調されるにつれエロ・恋愛表現以外の要素を主要なテーマとして取り入れていった結果、二人以外の多くの登場人物が要請されるようになり、一方でアニメやコミック、同人誌等のメディア間のやり取りもあって美少女が多人数入り乱れている状態がギャルゲー/エロゲー世界の常態として認知されるようになり、両者の複合体として、あるシナリオでヒロインである娘さんが別シナリオで脇役を務める「ヒロインの使いまわし」が一般的に行われるようになる。形式的にヒロイン個別のシナリオが用意されながら、もはや旧来の二人だけの世界は成立しなくなっていく、そんな捩れをダイレクトに表せばヒロイン同士で男性主人公を奪い合う三角関係シナリオとなり、目を逸らしながらであれば二人の他に登場人物が存在することを意識しながらでしか二人だけの世界を構築できないツンデレのクローズアップとなる。
 
以下、さらにネタバレ。
さておき、「つよきす」の優れているのはツンデレ理解です。ツンデレという語をヒロインの人格に押し付けることを避け、「ツンツンからデレデレへ」「男性主人公にだけデレデレ」といった定義されている行為を全て周囲の状況、シナリオ展開に依存するものとして読み込んでいく。上で述べたとおり、ツンデレを扱うにあたって、もはや完全に二人だけの世界は作れませんから、時系列を遡っての物語の叙述も出来ません。各ヒロインは自立した人間と見なされる。正確には、世間的に見て自立しているとは言いがたい、「幼い」キャラクター達も大勢います。というか、ある意味ではヒロイン全員そうです。よっぴーのようにKeyのシナリオに出てきてもおかしくない程度に共依存を必要とする、というか、そういう形でしか幸福を獲得しえないのではないかと思われる言動も描かれる。ですが、シナリオと主人公は彼女たちを突き放します。*2デレデレの状態をゴールとしないのですね。なごみんは、エピローグでは最早「ツンデレ」ではない。その場にいない主人公以外の登場人物たちのことも気にかけ、おそらくは多くの人に心を開いている。
そしてそうしたツンデレを(必須ではない)通過点として捉える態度は、エロゲーツンデレというテーマを掲げるにあたって必然であったと思われます。
なごみんやよっぴーといった過度に主人公を求めるヒロイン達は、当然ながら彼女たちの個別シナリオ以外では「心を開かない」ままでしょう。彼女らは、他に白馬にまたがった王子様が現れることもなく、そのまま成人し大人になるかもしれない。そのように生きてきた大人として祈先生がいます。彼女は、幼少時のトラウマを他の誰かに癒してもらうこともないまま大人になり就職しマイペースで生きています。主人公は彼女のことを知り力になりたいと願いますが、彼女はそれを望みません。そしてそのまま二人は付き合い続ける。
別に珍しいことでもなんでもなく、大抵の人は幼いままで大人になります。50歳でも60歳でも10代の子どもと基本的には変わりません。体面上のいろいろが増えてくだけですし、世の中なんて半分は体面で動きます。よっぴーが主人公と結ばれなくても、彼女は今その場で、おそらく平均よりは遥かにアグレッシブで楽しい学園生活をごく当り前に送っている。それは、それ自体でかけがえのないものですし、そうした学園生活の経験が彼女のその後の人生に何の影響も与えないとは思いません。
まあさておき、いいかげん、プレイヤーである僕達が何かをすることでモニターの向こうの彼女達のなにがしかを救うことができる(「僕が女の子を救った」気分になれる)、ていう甘えた発想は抜きにして話を進めて欲しいとは思いますが、その意味においても「つよきす」の、ツンデレという語の扱い方や、エロゲーシナリオで出来ることと出来ないことの範囲をきちんとわきまえた上で為すべき事を為している行儀のよさは特筆すべきことと思えます。ツンツンデレデレが要求される以上は、もはやエロゲーでなければ表現できない切実さは描かれない。ただ、ほんのひととき立ち寄る場所を提供できればいい。モラトリアムはあっても永遠はないし、こちらを揺さぶるような衝撃はなくても堅実で踏み外さない節度はある。
とりあえず以上。

*1:http://homepage1.nifty.com/fluorit/kindergarten.html#15「黄昏の海辺で急に泣けてきちゃうような少女と通りすがりにそんな彼女を放っておけなかった少年が,一目惚れの出会いを二千年の伝承として仮構した.」

*2:なごみんの幼さ、よっぴーの性格、どれも突き放して丁度いいぐらいのシナリオになっている、とも言えます。Keyの人外シナリオほど本格的に取り返しのつかないキャラクターはいない。