遊びに行きます。懇親会には出ません。ボコられそうなので。

  • コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会 第一回「死の表現をめぐって」

http://www.glocom.ac.jp/j/labs/azuma/project/game/
井上さんhttp://www.critiqueofgames.netメインの発表なのであるけれども。
すげえ個人的な物言いであるのだが。「コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会」て。「葉鍵」の例のタイトルといい「パクられてるんじゃないか妄想」がすごい勢いで襲い掛かってくるんだけど。

>ゲームは死を描けるのか?
いや無理でしょ、というのが常識的かつ正しい反応ではあるのだが、それでは話が進まないので続ける。

「映画やまんがやミステリーが人の死を記号的にしか描けないという限界を自覚した上で「現実」との関わりを模索しているのに対して「ゲーム」や「ゲーム」を出発点とする「ゲームのような小説」はその努力がぼくには乏しいように思えてなりません」

あのバカ親父は最低でもドラクエ全部やっとけよ、とは思うのだが。努力してなかったらあそこまで面倒くさいことやらねえじゃん、という話を当日は聴けるものと思う。その上でゲームやってない人間とゲームやってる人間との捉え方の差異をメディア論なり何なりで掘り下げてくれることだろう。
でまあ、ドラクエみたいな「王道」がちゃんと王道なりに真摯にテーマを追いかけ続けてるのに対して、そこから派生するカウンター的な手法や主題みたいなのがゲームの周辺で目立ってしまって、外部からするとドラクエ文脈がわかんないと何やってんだかわかんない、てなものばかり読むはめになるからそういう読みになるんだろ、と俺は思ってるんだけど。TRPGが原点、てのも割と困った話でさ、日本だとCRPGが先行して入ってきたし、実際に触れるのもメディアの窓口からしCRPG>TRPGの順になるのが圧倒的に多いだろうし。そうするとTRPGにどうしてもまとわりついてくるアンチCRPG的なイデオロギーは意識しなきゃいかんだろ。「マンチキン」なんてのは海外からの輸入の言葉だけど、あれなんかもろにそういうイデオロギッシュな言葉だ。それを紹介せずにいられなかった馬場コラムなんてのもそーゆー捩れを読みの前提に入れとかないと話がおかしくなる。まあ、あのへんの捩れっぷりの歴史は僕なんかを遥かに凌駕する相当なものなので、下手に触らないほうがいい、で止めとくが吉。あ、また脱線した。

んで、話をちょっと変える。主催者の井上さんの逃避のための文章に先にツッコミをいれておこう。

たとえば、それは茂内さんじゃないけれど、やっぱり『ACE COMBAT04』のラストとかがものすごく秀逸で、あれはまさにそういうものなんですよね。それまでほぼ完全に非人間的なものであったはずの敵の戦闘機が、いきなり人間的なものとして現出してくる。
そこにおいてはじめてプレイヤーは自らが残虐な虐殺者であったことを認知しうる。自分のみつめる世界における人間と非人間的なものとの境界が極めてあやうげにうつろうものであることを自覚する可能性がそこで与えられる。
http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20060407

これについては、以下のような話があって。

エロゲがびっくり箱化してる
http://blog.goo.ne.jp/kamimagi/e/3bfeb792c14cd4e1008cb57be78414fe

こういったやり方は、何も「マブラヴ」だけではありません。他の美少女ゲームについても、コンシューマゲームについても、有名大作の続編でも、場合によっては週刊連載のマンガやTVアニメについても、近年このような例が増えてきています。プレイヤーの期待を良い意味で裏切るのでなく、悪い意味で裏切る、つまり、騙すゲーム。ネット界隈では「地雷」とか呼ばれてますが、この手のゲームがプレイヤーの意欲を損なっている=業界人自らが業界の寿命を縮めているんではないか、という可能性に、そろそろ気付くべきなんじゃないかと思うわけでして。
http://d.hatena.ne.jp/rolim/20060312

もちろん、同じことの裏表です。
プレデター」を引き合いに出すまでもなく、別に最近のだけじゃなく昔から映画でも小説でも何でもあることなんで今更ではあるのだけれども、上手く巧妙に丁寧にやれば「いきなり人間的なものとして現出してくる」となるし、下手なやり方だと「地雷」と呼ばれる。
たとえば、同じ作品でも、

それでも、あえていう。これは傑作である。途中退屈のあまり何度も投げ出しかけたが、それでも傑作である。

だからあなたにもプレイしてほしい気がするるのだが、メッセでid:ishinokyujitsu氏とさんざん感動を分け合ってしまったので、なんだかもうどうでもいい気もする。でも、これだけはいっておく。凄いぞ。これは本当に凄い。途中まではちっちゃな妖精さんとかが出てくるメルヘェンなお話なのだが、終盤でとんでもないサプライズが待っている。

ていう人がいる一方で、

ひどい。
なりふり構わぬ上位設定の嵐に、初手で木っ端微塵になりました。自分と、自分の希望が。
ああ分かりましたさ。アルエンドがバッド扱いされるわけも、トルタエンドの謎も。

予備知識の全くない人に、このゲームを薦めたくはならなくなった。伝えるのをためらわれるほどに設定がえげつなさすぎる。
http://www1.ocn.ne.jp/~hkoba/diary/gd0512.html#20051224

という人がいる。上の人は小説読みブロガーで自分で「本格ミステリが好き。叙述トリックはもっと好き。騙されることは快感だ。」ていうジェットコースターで振り回されるのが好きなタイプ、下の人はSTGの攻略記事を書いてしまう生粋のゲーマー。あまりにあからさますぎる反応の差。
で。
コレらが何で今クローズアップされなければならないかというと、やっぱそこに「ゲーム」という言葉が絡んでくるからで。
たとえば、「お前ら、普段からもー少し陰気にしてろよ。無理しすぎ」id:rulia046:20060313の何気ない一言からはじまるエロゲ沢村連続こじれ事件」も、元はといえばそういう話なんですけど。

で、これについては以前に

ここでのRPGなどの「物語」は、プレイヤーにとってクリエイターの都合で出された後出しルール。
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20050623#p1

て書き方したんだけど、基本的にはそういう捉え方で問題ない気がする。あるいは「他者性の代用品」みたいな言い方もできるんだろうけど、そこに作者、クリエイター、メーカーていう金魚のフンがくっついてくる以上、他者性というより構造でしょ。
で、ゲームにおけるフェア、アンフェア、すなわちゲームバランスという話になる。ゲームとしてフェアであることを尊重するほど記号性は高まり「死」は遠ざかる。「強いリアリティを持った死の表現」を求めるてのは、制度を、システムを、ゲームであることを破壊することに他ならないわけで。ああ言い忘れたけど、もちろん「物語」も構造でゲームであることと同じですから、物語を破壊しないと「強いリアリティを持った死の表現」とやらにはたどり着きません。念のため。

はじめから人間の顔をかぶっているゲームこそ、次第に相手が人間であるということに頓着しなくなってくるのではないか、と。
http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20060407#p1

そりゃそうだろう、としか言いようがないのです。ついでに言えば、「後出しルール」による価値観の逆転は、当然再逆転しうる。というか感動的なEDを見た後で「それはそれ、これはこれ」ということでハイスコアを目指して殺戮ゲームを再開するなんて普通のことだと思う。そこんとこを突かないと話ははじまらない。てゆか

『GPM』が楽しくなってくるのは、イワッチをただの「あやまる」と認識するようになってからだと思うし、こうなるとNPCが各々に背負い『GPM』世界を構成する物語(設定)もただの収集対象でしかなくなる。
http://www.geocities.com/lovelyaichan2000/06.html

ていう話こそが

手塚が、個人個人の換えがたい生命を丁寧に描く作家だという意味での「死のリアリズムを描く作家だ」というような議論は、非常に一面的なものでしかなくて、「個人の死のリアリティというものが失われるリアリティがありうる」ということを描くことについての情熱を持つ人だったという意味において、手塚の描く死のリアリズムとはリアルだったのだと思います。
http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20060407#p1

における「個人の死のリアリティというものが失われるリアリティがありうる」を適確に指摘してると思います。
大塚よけには

まあなんつうか「物語」ばっかり見てると、作品を下部で支える「ゲーム」「漫画」「小説」ってのをいともあっさり忘れちまうってのはナニだと思う。「物語」さえ忘れる。で、結果的に「物語」もくそしょーもないものになるんだよ。
http://www.geocities.com/lovelyaichan2000/06.html

でもコピペしとけば充分なんじゃないかな。

で、それでもこういう話に意味があるとしたら、「ゲーム」の言葉の意味が拡大されて変わってしまっている、という話になるんだろう、と。元々この研究会の趣旨説明http://www.glocom.ac.jp/j/labs/azuma/project/game/about/index.html
で見てもゲームの言葉の意味がえらい広いし。
だからまあ、僕としては「物語を、死を描こうとする<ゲーム>とはどういう概念、定義の代物なのか? それは従来のいわゆるゲームとはどう異なるのか」というふうに書いてくれると判りやすいです。なんとなくその先には「シリアスゲーム」だの「教養小説としてのゲーム」id:tdaidouji:20060329#p2だのの言葉が待ち構えてそうだけど。で、そういう代物と娯楽として普通に楽しめるゲームとの衝突しないように共存するための方法、批評のあり方、というところまで話を持っていってくれないかなあ。やっぱさ、そのへんの批評評論技術がきちんとしてないと、間違えて最悪のタイミングで最悪の代物をプレイすることになって、その人の人生に取り返しのつかない悪影響を及ぼしかねないと思うんですよね。それもまた人生、なんてのは他人事だから言えるんで、実際に半年で取り返しのつかないことになった身id:tdaidouji:20060223#p1としては、何よりそのことを切実に望みます。