遠藤知巳編「フラット・カルチャー 現代日本の社会学」

あの遠藤知巳が真正面からライトノベルを論じている。しかも全41項目のうち編者である遠藤自身の執筆項目は序論とあとがきを除くと二つのみで、そのうちの一つが「ライトノベル」(もう一方は「マスコミと言論」)という、うわ、ついに商売っ気が出てきましたかとツッコミが入ってもおかしくないぐらい結構な話題になりそうな構成であるのに、なんでかしらんが喧しいネットラノベ論壇からの反応が聞こえてこないので、とりあえず門外漢であることを承知の上で取り上げてみる。

 まず推理小説読みを自称しつつ「従来のものとはかなり手触りの異なる作品群がぼつぼつ目立つようになっていた」「どうやら発想や素材をちがうところからもってきているらしい」と西尾維新らの名前をあげ、清涼院流水などはもちろん無視して、推理小説の外側からやってきたライトノベルという領域を見いだす自己申告。なんて誠実なんだろうと感涙せずにいられない。俺は今までつくづく酷い「評論」を読まされてきたんだなあ、と嘆息することしきりだが、そこから先も誠実かつ突き放した語り口でしっかりと読ませてくれる。全文引用したい欲望にかられるが一応[game]タグをつけてるので関連項目にだけ言及すると「ゲーム的なリセット可能性」をめぐっては「むしろ「あたかも一回性が否認できるかのような」ふるまいを一回性のうえに折り畳む想像力の形式が析出されるのではないか」という提案のもとにシャナや禁書目録が言及されたりする。

それにしても何より個人的に素晴らしかったのはやはり奈須きのこについての以下の言及。

たとえば奈須の『DDD』など、『空の境界』よりこなれているだけに(中略)小説でなさがよく見える。/しかしそれでも、これは「小説」ではあるのだろう。ゲーム的設定を拒否するほどの明瞭な文学的意志があるわけではなく、むしろそこからだらしなくこぼれおちてしまったようなところで、従来とは別種ではあるものの、一種の小説性のようなものが出現する。(P226-227)

これだけ読むと( ´_ゝ`)フーンという程度でしかないが本書全体の序論(フラット・カルチャーなる造語を巡る序論を先に書いて各項の執筆者に送りつけて議論を喚起してみせるとゆー、実にアレなスタイル)および本書全体の構成と響きあうと、俄然「小説」の意味が輝いてくる。「狭義の美少女ゲームのプレイは(中略)「読む」性格を特異に強めており、プレイというよりむしろ読書に近い」と述べてみせるだけで何かを説明した気になれる消極性や、その消極性を裏付ける特権性の自明視感覚の介在とは対極に位置する、かなり強い主張だ。よく見てみれば<「軽い(ライトな)」小説の位相>というタイトルの元、「小説」を巡って論じているのだから当たり前なのだけれども。しかしそれにしても、我が意を得たりというべきか、おいらはこーゆーのが読みたかったのである。