テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』擁護文

俺が書くと貶してるように読めてしまうかもしれんが、頑張って擁護してみる。

図像、

キャラ/キャラクター」は図像に由来するものであるとの見解を取っていることが問題となります。

これは素直にそう読めばいいと思う。

伊藤がマンガの構成要素を
「キャラ+コマ+言葉」
にしたことが分かりにくさをもたらしている根源的な原因なのかもしれません。マンガの構成要素については従来的理解である「絵+コマ+言葉」のままで良かったのではないでしょうか。こちらは紙の上にインクで表される物質的な要素として,すっきり整理できます。

これは構成要素から「絵」を外したかったんだと思われ。「絵=図像」を「コマ」や「言葉」と分離するのではなく、「コマ」も「言葉」も印刷されている漫画をパッとページを開いて目に入ってくる視覚効果、「絵=図像」の側面を持っているという形にして図像解釈=表現論の領域の整理と拡大を目指したと考える。

構成要素 = 観念的 / 図像的

というふうに考えると、

絵(コマ内の絵)= キャラ     / キャラクター
コマ      = カメラフレーム / ページ全体の図像配置
言葉      = テキスト    / オノマトペ

こんな感じで整理できる。観念的というと変な言い方だけど、ストーリーマンガをストーリーマンガとして読むための文法、「つながり」がどこで生じているかという話。構成要素を享受するためには別の構成要素で連続性を確保しなくてはならないわけで、おそらくは様々な構成要素が代わる代わる連続性をバトンタッチしていくような、パッチワークのような形でストーリーマンガ全体の接続は成立している。こういう形で考えた際の利点は本書のコマ割を巡る考察で発揮されている。また、例えば「言葉」を図像的に捉える考え方を導入すれば、「オラオラオラオラオラオラオラオラオオラオラオラオララオラオラオラオラオラ」であるとか「か」「め」「は」「め」「波!!!!!!!!!!!!!!!」であるとかの吹き出し内の写植文字の装飾的な面を取り上げたりできるし、逆に週刊マガジン御用達の写植「!!」をコマのど真ん中に置く手法が図像的ではなくテキスト主導的な発想であることも説明でき、あるいは写植文字と書き文字の使い分けも考察できる。
で、本書で漫画の肝心の「絵」をなぜ「キャラ/キャラクター」にしたのかと言えば、ストーリーマンガを取り上げたから。

ストーリーマンガ

この本は「ストーリーマンガ」と呼ばれるマンガと、「ストーリーマンガ」が主流となった以後の「ストーリーマンガ」の周辺のマンガが射程範囲。つまり、ストーリーマンガの形式が一般的なフォーマットとして定着し、普通に「マンガ」と呼ばれる代物に物語がとにかく基礎として設置されていることに気づかなくなった後の状況を前提にしてる。なので、

絵(キャラ)が戯れているだけで物語(キャラクター)を持たない実験的な作品を本書の枠組みでは把握できるのだろうか,という疑問提起があった

というのは正しい指摘。大前提として「ストーリーマンガ」であるためにはコマ内の絵の在り方は人間を描写の一極として配置しなければならない。別の言い方ならば、大枠として「ストーリーマンガ」であるからこそ人間の顔によって連続性を保証することが可能となる。
「ストーリーマンガ」が漫画の主流となる以前は、その作品が物語であることを証明するためにも「キャラ/キャラクター」のうちの「キャラクター」が必要とされていた。この段階で「キャラ」は連続性を示すための「のりしろ」とはなりえていない。目に入る漫画の全てが「ストーリーマンガ」となり、物語が漫画内に存在することの証明を必要としなくなったとき、「キャラ」はそこにいるだけで物語発生の担保となる。

…眠い。ラノベに適用できるできないの話はまた今度。