まじ

ハリポタよりかネギまを思い出す。チネチッタに走っていける距離って御近所ですか。

だから、普段はフォーマットに忠実な話ってオタクな人の話題にならないわけさ。フォーマットからほんの少し踏み外すのを見て喜ぶのがオタクな行動なんだから。だからこそ戦隊物はマニア向けであってオタク向けではないって認識だったんだけど。

この「ほんの少しだけ踏み外す」を理屈方面に読み替えると古来からの「正義の味方のアイデンティティの描写」ていう話になるんだけど、ところが最早そういう読み方を放棄して「子供番組としての正しい正義の味方の描写」ていう読み方にシフトして読み替えている人たちが大勢いるのが面白いわけです。
フォーマットが先行してることに違和感なくて、むしろ視聴に参加する以上は先行するフォーマットに積極的に従うっていうスタンスは理解できるところではあるんだけれど、じゃあその読み方って誰の読み方なのさ、ていうと当然ながら雑誌ライター、言論人、大手サイトの意見である。
ここで、ものすごく微妙なところであるんだけど「正義とは何か」と「正義を描写するとは何か」との差、さらに描写される正義の「読み方」の差が生じてしまう、そのズレが何を意味するのかて。
俺にとっての「ある一時期に小林よしのりを好意的に語っていた史学科のS君や哲学科のMさんと何処でぶつかったのか、あの頃に何を指摘し損ねたのか」という話でもあります。

参考:<マンガ>のリミット −小林よしのり=『ゴーマニズム宣言』をめぐって−
http://yossy32.hp.infoseek.co.jp/gohsen.htm

この人のサイトhttp://yossy32.hp.infoseek.co.jp/intro.htmにある他の論文も非常に面白いのだけれども、その中にある
「マンガを語ることの<現在>」は一部の人に大人気の夏目房之介批判になってたりします。