パトレイバーのこと

なんか話題になってて、そういや昔に書きかけて放置してたなあ、と思ったので漁ったら出てきた。
タイムスタンプを見ると最終更新が2010年12月である。

(以下、放置してた文章)

はてな、と思ったので、はてなに。

>内海さんはいかにして企画七課をまとめているのか。
http://mubou.seesaa.net/article/169726524.html

>では、後藤隊長はいかにして特車二課第二小隊をまとめているのか。
http://mubou.seesaa.net/article/169838024.html

記事の趣旨はおいといて、内海課長はマンガ版を代表するキャラなのに、それに対比される後藤隊長について提示されてるのが半分がたアニメ(劇場版)での描写なので、ちとアンバランスに感じたのだった。(書きかけで放置していたら、リンク先がえらいことになっていたが、とりあえず無視して話を進める)

  1. 後藤さんサイド
  • コミック版において、後藤隊長の具体的言動は、実は目立たない。というか劇場版の隊長が目立ちすぎなのだけど。上リンク先での引用でもわかるように、後藤隊長の「切れ者」イメージの源泉は、まずもってアニメ版である。コミック版はどっちかというと「細かいとこでフォローにまわってくれる、頼りになるおじさん」の役割を振られてるように思う。そんなコミック版での外からの評価は「昼行灯」(忠臣蔵大石内蔵助のニックネームなので、今の使い方としては単に役立たずの意味というわけでもないだろうが)だ。「カミソリ後藤」とはちょっと方向性が違う。*1結果的にはリンク先のように受け手の側で双方を統合し、アニメのほうだと後藤隊長の赤裸々な内面独白をきかされ、マンガのほうではそんな後藤隊長が自己をきっちりおさえて社会人らしく(?)振舞ってる、という二面性描写として捉えられていったのだろうけども。
  • その際、わりと気になるのが、後藤隊長の上司が誰か、とゆー話である。OVA版の影の薄い課長さんはコミック版では採用されず、また、劇場版以降はアニメでもコミック版で登場した福島課長さんになった。OVA版の課長さんでは、ほとんど全権を請け負ってる司令長官(校長先生?)な後藤隊長との兼ね合いでいないに等しかった。なんせ例の5、6話はどう見てもやりにげ暴走、青春リバイバルしすぎ、である。福島課長は、コミック版では警察組織としての特車二課を維持しようと頑張ってて、劇場版でも官僚的とゆーかお役人な態度の範囲内とはいえ、警察上層部と後藤隊長や南雲隊長の接続をしようとゆー水面下の努力がまがりなりにも見受けられる。後藤隊長の上司という、俺なら逃げ出すしんどい役割を背負わされてる組織人だ。この上司と部下の関係は、おそらく内海課長と徳永専務の関係と対比的に語られうる。
  • コミック版で後藤隊長が語るのは、社会において警察がどういう役割を負っているか、とゆー話の懇切丁寧な解説である。アニメのように政治・官僚な体制への批判をやったりしない。読者に向けて語っているといっていい、と思う。オシイマモルがパトレイバーという「巨大ロボ」がいかに非科学的で荒唐無稽かについてグダグダと語っているが、ゆうきまさみは「巨大ロボがそこにある荒唐無稽さ」を着地させるために、警察という正義の力のあり方について、どうにかしようと格闘してったのであり、後藤隊長の言動もそれに沿ったものになってると言える。
  1. 内海さんサイド
  • 一方、コミック版ではなんで内海課長を出したのか。
  • ウィキペを見ると、シャフトという「悪の企業」の原案については、企画を転がしてた早い時期からあったようである。とりあえずアリものをいかにもそれらしく地に足のついた描写を手がける能力について、ゆうきまさみの才を否定する人はいないと思われるので、アニメタイアップがなし崩しに連載延長していった経緯からみても、内海課長のキャラクター造形は「シャフトエンタープライズありき」とみなせる。つまり内海課長はシャフトの外資系のイメージを受け持って「ここが変だよ日本人」とツッコミを入れてくるような造形であった、と、とりあえず言える。*2まんまガイジンではないところが「鉄腕バーディー」のゴメスとの違いだ。*3白黒ツートンカラーという極めて「日本的」な意匠をまとったパトレイバーについて、押井守はいつものやつを「日本とは、東京とは何か」といった風味で内省的に掘り下げいったのに対し、ゆうきはオーソドックスに対立する要素を積み上げていくことでドラマを構築していった。
  • 企画七課が「80年代」であり「光画部」ではないか、という例の岡田斗司夫による指摘*4だが、指摘のアンバランスさについて留意すべきだろう。パトレイバーという「リアル」なロボットが「SF」の延長線上で近未来の東京を舞台に戦うシチュエーションそのものが、当時すでにムーブメントとして終焉をむかえていたSFロボットアニメという細々と生き残って拠り所を求めていた極めてオタク的な想像力*5であり、そのオタク的想像力をどのように着地させていくかという試行錯誤において「オタク集団」企画七課が対立組織として見出された。内海課長の肝いりで技術者が趣味に走って出来上がったグリフォンは「(部品は)強いて言えばイングラムに似ている」「そりゃ…コンセプトが同じなんだろ」という代物である。これについて岡田はそのロボットアニメの成立過程とともに生まれ育った「オタク第一世代」という立ち位置ゆえに指摘しようとしない。ロボットアニメというオタク的な想像力に対する痛烈な皮肉を押井守が発してることに対し極めてあっさりと「オシイだから」とスルーしてしまえる岡田の無自覚さ或いは無自覚を装った開き直り*6は、企画七課を考える上で踏まえておく必要がある。「リアル巨大ロボットを現実に運用していくにはどうすればいいか」という、SFアニメの想像力の行き先を巡る難問に、あっさりと「国家が運用しているから問題クリア」という解答を示してしまったことを巡って、パトレイバーはアニメでもマンガでも幾重にも思考と描写を重ねていったのだから。国家権力および国策企業を背負った横綱勝負な特車二課を向こうにまわし奇策を尽くして戦った果てに敗北した企画七課とグリフォン、そして内海課長について、そう単純に肯定否定を語れるはずもない。80年代的であり光画部的であったとかいう前に、彼らはその行動においてフツーに知恵を尽くしており、カッコよかった。
  • 外資系であるシャフトの上層部にいるのが古典的な日本企業叩き上げタイプとして描かれる徳永専務らであり、外資系企業の国際派ビジネスマンなイメージを背負った内海課長と対比され最終的には企画七課を潰しにかかることになる。彼らは内海課長の「日本の企業人」とは言いがたい人となりを際立てて描写するために当初用意されたと考えるのが妥当だろう。そんな彼らは物語の終盤「HOS」でもって篠原と手を組む。具体的な内容は示されないが、そこにイメージとして提示されるのは談合なり横並びなりの「古式ゆかしき日本企業の悪習」である。マンガ版では外国人労働者・技術者を巡るスト騒動があったことを想起すれば、パトレイバーは終始、「日本」とその外側の対置が強く意識されていたことに気づかざるをえない。
  • 終盤でHOSが出てくるのは意味深だ。HOSは劇場版では「効率的なOS」としか説明されていないが、マンガ版ではHOSの効率性の根拠について「様々なレイバーにおいて、同一の作業を行なうのに最適な行動を共有化できる」といった説明がなされている(警察のような特殊な使用法においては、HOSはあまり意味がない、という説明もされている)。よく考えてみると、このOSのあり方は酷く歪であることに気づく。そもそも、レイバーという多足歩行型の大型作業機械は、通常の作業機械より、作業の足場の悪い現場で、それなりに複雑で多様な作業を行なえるがゆえに普及したはずだ。特殊作業の多かったバビロンプロジェクトの工事であっても、ある程度まで作業内容が分類され行動パターンが共有化されうるならば、おそらく極めて高価な作業機械であろうレイバーより、通常の特殊工事用途の車両や作業機械を採用したほうが安価かつ効率的である可能性が極めて高い。HOSが十分に普及し、レイバーの作業の過程が十分に分析され共有データとして抽出しうるなら、その次にくるのは、HOSの蓄積データに基づいた「レイバーと同じ作業をより安価かつ効率的に行なえる作業機械への、ハードウェア面での入れ替え」だろう。もともと、「単なる作業機械がここまでヒトガタである意味は薄く、技術競争のアピールの面がある」といった作中のエクスキューズが示唆しているとおり、マンガ版のパトレイバーはいつまでも人型機械が闊歩するようには描かれていない。劇場版のHOSは、バビロンプロジェクト東京湾埋め立て工事という「80年代という幻想」そのものであるパトレイバーの舞台背景への攻撃だったが、マンガ版HOSは、巨大ロボットが作業現場にいなければならない根拠を失わせ、「パトレイバー」を過去の遺物へと追いやる存在として、シャフトの徳永専務や平光取締役が見出した、究極の切り札だった。*7
  1. 後藤隊長内海課長の対決について
  • 内海課長は特車二課襲撃において、橋を壊し地下道を塞いで特車二課を孤立させる。これは劇場版2作目で橋をバンバン落としまくり特車二課の建物を機関砲で蜂の巣にしたのを踏まえての描写と思われるが、ぶっちゃけ、どう考えても自衛隊や警察などの交通経路を遮断し混乱を助長させるには物足りなくて監督自身も白状してみせるぐらいに観念的な意味合いの強い攻撃だった劇場版より、はるかに合目的的で有効かつスマートな描写である。映画としちゃスケールの大きさを気にかけなきゃいけない事情があるとしても、視聴者に読者にメッセージを送るのであれば、東京を標的にせずても特車二課そのものを「幻想」の象徴として指名し企画七課の少ない手勢で制圧してみせれば、それで「平和ボケした日本人と日本政府」を解説するのに十分だった。このへん、外資系サラリーマン内海の面目躍如だ。
  • 特車二課の危機に対し、後藤隊長は現場のリアルタイムの状況に対しては、起死回生の有効な手を打ったりは、しない。単行本20巻以上をかけ、いろいろ暗躍したり情報を集めて捜査の方向性を誘導したりして間接的に企画七課を追い詰めてるのであって、本当に何もしてないわけではないのだけれど。負けなければいい戦いを戦い続けるのが警察の仕事ということで、そもそも二人は戦っている場所が違っていた。

(以上で途切れ)

当時、何が言いたかったのかは忘れた。が、まあ、パト2見てると押井さんは正義の味方が描きたかったんだな、とかは思いましたよ。参考http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20081208

あとまあ、ゆうきまさみはやっぱパロディの人で、あんまし想像の翼がバサバサしてない感じにどうしても見えちゃって、バーディーも律儀に追いかけて読んでたんだけど、最後のほうはコレをバーディーで書き続ける意味がもうよくわかんねえな、って思ってた。

あと近刊の「白暮のクロニクル」で昔の短編の匂いが微かにあるのに絵が現在の絵で書き込み少な目(短編集のシリアスものだと結構ページが黒い感じ)で、ちょっとならず違和感があった。さておき「実は戦前から生き延びてる」が好きだよね、バーディーでもいたし。んで理由を考えて、基本的に妄想ファンタジーが書けない人(それは確かガンダムに羽根散らすなんで俺には出来ない、ってコラムで告白してたと思う)なので、ストーリー上の飛躍のための素材がいきおい戦前の日本とかになっちゃいがちなのかなあ、とかそんなことを思いました。

*1:おそらく意図的に異なるあだ名にしている。

*2:単なる「80年代の象徴」なら「リチャード」とはならないだろう。「80年代」なる単語の背後の「日本人が素朴にイメージする国際的なるもの」をダイレクトに反映してるとみなしたほうが適切だ。

*3:ゴメスと内海課長が立ち位置や眼鏡(グラサン)キャラといった点で被っていることは指摘できる。また、リニューアルされたバーディーではゴメスの「日本への帰化度合い」が何かにつけ強調して描かれている点は、時代の変化としても内海課長との対比としても興味深い。

*4:http://smmd.cute.bz/hoe/hoehoe05.html

*5:未曾有のヒットを得たとはいえ、TVアニメとしては採用されずOVAに流れた企画だったのである。

*6:アメリカの高層ビルを買収し浮かれ騒いだ80年代」は、ほぼそのまま「COOLなOTAKU文化は海外で大ウケと浮かれ騒いだ2000年代」として縮小再演された。

*7:徳永専務が逮捕されちゃったっぽいので、物語後のシャフト日本法人自体は表向き事業縮小か撤退を余儀なくされてるだろうけど。