一位

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プリコネ 。リリースとほぼ同時に開始して4年超、初めての1位。

大概の人はシャッフル時の譲りあい期間に1位取ってると思うので、その機会をスルーし続けるぐらい真面目にやってなかったわけだけど、ここんとこトレンドのバランスが変わって持ちデッキが抵抗なくスルスルと上がっていって2位にまで辿り着いたので、せっかくだからと追い石50払って1位ゲット(トップ10位以内は1つ上がると石500返ってくるので黒字は黒字)。

持ちデッキ、構成キャラ的に5、6世代は前の組み合わせなので、それが上がれちゃったというのは微妙なとこではある。ここ何ヶ月かしばらく勝てなかったのがメタの積み重ねで順番が巡ってきたと言うには世代のメタの循環としては早すぎる。強キャラによる世代更新が微妙に足踏みしてるのもあるのだろうし、何より自分レベルが追い石を最後の最後まで使わず2位に上がれてしまったこと自体、ガチ勢の減少を意味してるだろう。アニメ2期はほぼゲームファンのための出血大サービスな内容で新規獲得にはならんかったろうし。

課金タイミングがなー。毎月3000円ぐらいは入れてるんだがそれ以上入れるきっかけが今ひとつ。グッズでも買えばいいとは思うものの。アオイちゃんが順調にバリエーション増えてるしアオイちゃんグッズどかっと出しませんかね。

犬王

 アイドルアニメが溢れてる昨今もあり、音楽と組み合わせているアニメについて「これはアニメが主か、音楽が主か」と考えるときがある。

 理想を言うなら楽曲と映像が精妙に組み合わさって一体化し相乗効果を上げて「これぞ総合芸術!」みたいな喝采となるべきなんだろうけども、そういう簡単な話でもなかろうな、という。

 アニメーションと音楽の合成で一番に取り上げるべきはディズニーの「ファンタジア」になると思うんだけども、たとえばファンタジアをシーン毎に見ると、「あれ、これって、アニメーションがただ単に音楽を視覚化してるだけじゃね? アニメーションが音楽に従属してるカタチなのでは?」と思ったりする。

 当然、逆に音楽が映像に対し従になるのも普通なので、どっちがダメというわけでもないのだが、アニメーションの場合は実写映像と異なり映像の先にある実体を持ち合わせてないので、音楽が従の立場のうちはいいのだが、アニメーションが従となってしまうと、どうも完全に音楽に組み伏せられ、主張を完全に失ってしまうような気がする。ファンタジアの頃は総合的なクラシック演奏会の視覚化のような映像作品は世界初の試みだし、アニメーションが音の従者であるような部分は特に気にするものでもなかったのだろうが、現代において「アニメとミュージカル的な手法は相性がいい」と安易にその手に乗っかると、途端に、それがアニメーションである意味まで失いかねないのではと前から思ってはいた。

 で、犬王がまさにそんな懸念がドンピシャに当たった感じとなった。

 アニメーションをとにかく音のリズムに合わせてる。作ってる側としてはアニメーション映像が主であり音楽は従のつもりだろうな、というのは見てて感じ取れる。アニメーション映像の快楽を、気持ちよくスルっと身体に直接滑り込ませるために、音楽のリズムを活用する感じだろうか。

 けど実際はそうなってない。観客の身体は音楽に合わさり、映像は音楽の従者として働いてるのだなと受け止める。目より耳のが強く、映像が音のリズムにズルズルと従ってるカタチになる。「ロックが古臭い」という感想が目立つのは、実際、鑑賞してて橋の上のライブシーンでずっこけるのは、こちらの感覚が映像じゃなく楽曲のイメージに否応なく引っ張られるからだろう。

 そういうロック音楽のなんとも間延びした視聴体験を、作品全体のテーマから解釈して意味を捉え、意図を理解することはできる。出来るが、それは湯浅政明という「映像イメージを頭で理解するんじゃなく身体で受け止めて欲しい」系の映像作家にとっては敗北だろう。体制に取り込まれるロックスターの姿から逆算して弁護してあげても空しい限り。

 映像作品、特に映画については「時間のコントロール」というのが批評家の気にするところだが、その面で言うと時間の主導権を音楽が終始握ってしまっていて、映像の側が主導権を奪われ続けてると思った。犬王が異形の姿で跳ね回るうちは、犬王の飛び跳ねる姿がリズムとなって、ちょっとは主導権を持ち得てたはずだが。

 ロックを選んだのもやっぱ失敗かなとも思う。スピーカーを通してしまえば琵琶法師の琵琶もエレキギターもフラットに並べられてしまい、そうなると一音の主張の強いのは琵琶の音のベンベン!じゃなかったか。つうかエレキのギュイイイイン!を問答無用に突っ込むべきだったと思う。映像と音の同期をあえて外すタイミングを設けることで映像の側に主導権を持たせることも出来ただろうし、そこであえてズラしちゃえば存在しないエレキ音が派手に跳ね回ったところでオカシイと言う客も少なかったろう。時代劇のBGMに洋楽を入れるなとは今どき誰も言わない。「ミュージカル」という体裁に囚われ過ぎて映像と音のリンクをあまりにも忠実に守ろうとして、失敗したのだ。

 ただ、失敗ではあるんだが、前のめりの失敗な感じではある。

 湯浅政明は個人的にはマインドゲームのときから「すごいんだけどすごくない」作家という評価がずーっと続いている。メタモルフォーゼの想像力、線の取り方の快楽、そういうのはすごいなってなるのだが、その凄みが、毎回こじんまりとまとまろうとしてしまう。

 今回そこから脱却したいんだろうなってのは感じた。いや、いつも狙ってるんだろうけども、今回は特にそう感じた。逸脱の快楽から始まって、こじんまりとしたまとまりに収まってしまう犬王の姿は、当然ながら湯浅政明自身を投影させてるつもりだろうし、そこをあからさまに見せながら、その先をなんとか掴もうと探ってるんだろうなと受け取れる。

 けどなー。

 アニメーションの歴史は、おそらくだが、楽曲の支配力に対抗するためのツールとして色んなものを発明してきたはずで。ミッキーマウスに代表される強固なキャラクターイメージの発明もその一つだし、宮崎アニメで駆使される高低差(重力表現、落下、そこに反発する飛翔)もあるだろうし、出崎アニメのハーモニー処理なんてのもあるだろう。

 湯浅政明アニメのメタモルフォーゼの快楽、線の快楽は、アニメーションの根源的な快楽に接続してるはずなんだけど、根源的にすぎて、なんかこう、せっかく100年かけて培ってきた色々、もろもろを、見落としてしまってる気がする。あえてやってる面もあるのだろうが、なんかすごく勿体ない。

 今回こうして安易にミュージカルにしちゃう前に、なんか欲しかったなあと。

程よく本棚が本棚っぽくなった

片付け中、そこそこのまとまり感のある棚になった。

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しかし途中なのでここから崩れてく。

まとまってない方はというと。

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仕分けるのめんどくさい。

いや嘘。これまだマシ。もっとずっとどうにもならぬ。

これ以上惨状晒すと個人情報ダダ漏れなので終わり。

 

 

ナイトメア・アリー

ギレルモ・デル・トロ監督映画。2回見に行った。リメイク前の映画DVDも購入、原作小説も買ったがボリューム多くてまだ読み切れてない。ざっと目を通して今回の映画とはどちらも全く別なのは推察された。

ちな1回目視聴後に「一つ目の国」だよなと思ったのだが検索しても言及してるのそれっぽく仄めかしてる動画レビュー1つぐらいしかなくちょっと意外。瓶の胎児エノクについても母親の腹の中で暴れるってスタンを示唆してるがそういう言及も特になく(後半で一つ目の目隠しをしてるのに)、感想を漁ってくと全般に見えてるものがそのへんの視聴層と全く違っちゃったなあ、と。

ホルマリン漬け胎児、酒、暴力等々、デルトロの過去作のモチーフを引き継いでる。それらモチーフが持つ役割も変わってはない。ただ今回、ついに「マイノリティではない白人男性」が脇役ではなく中心に据えられ、しかも救済されてるのが新しいと言えるかもしれない。今までのデルトロの成人した普通の人間男性というのは暴力と社会権力に憑かれた愚者として救われることなく捨て去られていた。今回は主人公として異界に一度囚われてチェンジリングの洗礼を通過し怪物としての履歴を経ることで救いに至っている。救いを得るに至る過程がメビウスの輪のような作り。

今回、ともかく感想やレビューを漁ってるとピンとこないのが多い。円環構造という説明をよく見かけるけども円環というよりも人間と怪物の裏返りを二度経る感じはメビウスの輪だし、胎内回帰というワードも見かけるが胎内に入って出産、生まれ変わってるので回帰じゃないだろうとも思う。精神分析ワードに引っ張られてエディプスコンプレックスを強調するレビューも見かけるが、しかし父親というならば映画内で主人公に対し作中で最も印象が強く父親的にふるまってるのは見世物小屋のオーナーのクレムであり、千里眼術士のピートや挿入される回想シーン内の実父は印象が弱い。デル・トロ世界において父性は最初から呪われ内面化されていて、つまり主人公自身の暴力としてあるもので、実父に対する消極的な殺害や事故なのか故意なのかハッキリしないピートの死が父殺しになるかというと、なってないよと。むしろ、そこで暴力を行使するに至ってないからこそ獣人の暴力性に強く惹きつけられている。獣人の暴力に魅せられ、地獄の胎内で獣人を殴る過程を差し挟むことで異界転生にひずみが生じ(裏返って糊付けしたメビウスの輪となり)、最終的にエズラへの暴力行使を経る(心理学者の部屋という胎内を再度通過する)ことによってついに獣人(という正真正銘の人間、人間という怪物)に至る流れに、エディプスコンプレックスの入る余地はあまりない。女性たちは男が憧れる暴力と対峙し受け止め、それでもなお強かに生き延びるものとしてあって、そこはやはり暴力を求めずにいられない主人公との対比だろう。

暴力に囚われ暴力に否応なく惹きつけられる男性が、その暴力性をこそ真の人間の証明に他ならないとして肯定され認められる、ねじれた救済の物語

THE BATMAN

ざっくりまとめると後退したなあ、という感じ。9.11の後の2005、2006年あたりに見てたら丁度良かったんだろうけども。ノーランのバットマンビギンズが2005年公開となってたんで、つまり、そこからやり直したいという感じかなと。仕切り直すにしても、そっから?

イヤーワン初出を検索したら1987年。ノーランがダークナイトの名前を冠したシリーズ作っちゃったし、ダークナイト像の発展形としてのスーパーマンVSバットマンもやっちゃったし、そっち方面は終了したいというのはまあわからんでもない。ないが、そこでイヤーワンに続くイヤーツーで90年代なのかな? って展開にして9.11っていうのは、正直かったるい。

探偵としてのバットマン、という説明については、ハハハご冗談を、でいいでしょ。推理小説の探偵って犯人の用意するロジックに別系統のロジックをぶつけて破壊するのが仕事。仕事してない。というかバットマンの内面掘り下げる話なのでバットマン自身が別系統のロジックを用意できちゃうと話が破綻するから出来ないんだよね。探偵バットマンとかいう説明を出すやつが悪い。

絵は綺麗。とりあえず実質的なバットマンオリジン消化話ということで、ノーランのバットマンビギンズと同じ位置づけだとしたら、次作が本番ってことで、今回の作品を無理やり持ち上げる必要はないって感じ。けどバットマンの個人史、内面を掘り下げるのをオリジンでやっちゃって、次も似たような話にしてしまうといいかげん間が持たないと思うのでバットマンは話の焦点から外さないとしょうがなかろうが、どうすんのかな。