ナイトメア・アリー

ギレルモ・デル・トロ監督映画。2回見に行った。リメイク前の映画DVDも購入、原作小説も買ったがボリューム多くてまだ読み切れてない。ざっと目を通して今回の映画とはどちらも全く別なのは推察された。

ちな1回目視聴後に「一つ目の国」だよなと思ったのだが検索しても言及してるのそれっぽく仄めかしてる動画レビュー1つぐらいしかなくちょっと意外。瓶の胎児エノクについても母親の腹の中で暴れるってスタンを示唆してるがそういう言及も特になく(後半で一つ目の目隠しをしてるのに)、感想を漁ってくと全般に見えてるものがそのへんの視聴層と全く違っちゃったなあ、と。

ホルマリン漬け胎児、酒、暴力等々、デルトロの過去作のモチーフを引き継いでる。それらモチーフが持つ役割も変わってはない。ただ今回、ついに「マイノリティではない白人男性」が脇役ではなく中心に据えられ、しかも救済されてるのが新しいと言えるかもしれない。今までのデルトロの成人した普通の人間男性というのは暴力と社会権力に憑かれた愚者として救われることなく捨て去られていた。今回は主人公として異界に一度囚われてチェンジリングの洗礼を通過し怪物としての履歴を経ることで救いに至っている。救いを得るに至る過程がメビウスの輪のような作り。

今回、ともかく感想やレビューを漁ってるとピンとこないのが多い。円環構造という説明をよく見かけるけども円環というよりも人間と怪物の裏返りを二度経る感じはメビウスの輪だし、胎内回帰というワードも見かけるが胎内に入って出産、生まれ変わってるので回帰じゃないだろうとも思う。精神分析ワードに引っ張られてエディプスコンプレックスを強調するレビューも見かけるが、しかし父親というならば映画内で主人公に対し作中で最も印象が強く父親的にふるまってるのは見世物小屋のオーナーのクレムであり、千里眼術士のピートや挿入される回想シーン内の実父は印象が弱い。デル・トロ世界において父性は最初から呪われ内面化されていて、つまり主人公自身の暴力としてあるもので、実父に対する消極的な殺害や事故なのか故意なのかハッキリしないピートの死が父殺しになるかというと、なってないよと。むしろ、そこで暴力を行使するに至ってないからこそ獣人の暴力性に強く惹きつけられている。獣人の暴力に魅せられ、地獄の胎内で獣人を殴る過程を差し挟むことで異界転生にひずみが生じ(裏返って糊付けしたメビウスの輪となり)、最終的にエズラへの暴力行使を経る(心理学者の部屋という胎内を再度通過する)ことによってついに獣人(という正真正銘の人間、人間という怪物)に至る流れに、エディプスコンプレックスの入る余地はあまりない。女性たちは男が憧れる暴力と対峙し受け止め、それでもなお強かに生き延びるものとしてあって、そこはやはり暴力を求めずにいられない主人公との対比だろう。

暴力に囚われ暴力に否応なく惹きつけられる男性が、その暴力性をこそ真の人間の証明に他ならないとして肯定され認められる、ねじれた救済の物語