@oyomot: 自分の生活環境のうち、政策批判レベルではてきとう好き勝手なことをツイッターでつぶやける程度の状況は現状維持しておきたい保守(現状維持志向)主義者としては、右派系革新志向の自民ははそりゃ嫌だよ。あんなん保守じゃねえし
@oyomot: いや。うん。景気が良かろうが悪かろうが、王政の国は王政のままだし身分制度がある国は身分制度があるままだし、1920年代の米国で人種差別がないわけでもなければ19世紀の英国で男女同権だったわけでもない(それぞれで貧民がいなかったわけでもなく)て言えば済むのではないか
@oyomot: じゃあ、何が視覚の解体だったのかというと、絵を書くのって、最初は、絵を描いたら何であれ描かれる元ネタと「同じ」だった、それが「もっと同じ」にするために、だんだんとコレは「同じ」(そっくり)じゃない、ああだこうだ、と細かいスキルについて突っ込んでくうち、「目」と「手」が分離してった
@oyomot: 「観察者の系譜」という本では「絵画とか建築とか映画とか視覚的な話を山ほど語ってるベンヤミンが、現代の映像評論に大きな影響を与えてるあのベンヤミンが、19世紀の絵画について触れてない」とツッコミを入れていまして
@oyomot: その「ズレまくってるのをごまかしてるじゃん」っていうツッコミの中にマンガの話も入ってきます。で、「視覚の解体」ってそもそも結局何だったのっていいますと、「絵が上手くなる」という話だったはずなのに、絵の話じゃなくなってしまった(いつの間にかみんなして映画の話ばっかしてる!)」という
@oyomot: 最終的に「写真ってのは本物そっくりに描けるスキルの到達点なのだ」「写真から分派して本物そっくりが動いてる映画はスキルアップの<あがり>なのだ」に至るんだけど、ちょっと待って、途中いろいろズレてるし、その本物そっくりって最初言ってたのと全然違うよね、ってツッコミがあってですね
@oyomot: この視覚の話は続きがあって、「だんだん思ってたのと違ってきてたんだけど、手先のスキルにあわせて<本物ってこういうこと>の思い込みのほうが引きずられていって、なし崩しのうちに「俺は順調に絵がうまくなってる、何の問題もなく当初の目標のままスキルアップしてる」と思い込んでる、となります