昨日の続きいってみよう。

これね。
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20130305#p1
元ネタ。
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/03/03/213830

さて、彼を攻撃してるらしい名無しさんの書く権利は守られるべきであり、彼は書くことを制限されるべきである、と書いた。
なぜかといえば、彼と彼の書いてるものは個人という逃げ道を打っただけで個人の権利を主張する何物も持ちえない代物だが、彼を攻撃してるどっかの名無しの書いてるものは個人の主張だからだ。
彼は公共を理解しない、知らない、という。しかし彼は大衆を否定しない。彼は大衆に混ざる。
彼の文章に個人の主張なんぞない。彼の大衆受けすることを選んだ文体が、個の主張をすることを許さないからだ。彼は自分の考えたこと自分の書いたことであると思い込んでいるだろうが、そういうふうに大衆とくっついた形に洗練されてきた結果、そういう考え方になったのである。
彼の職業がコンビニの店長である、というのも、そうなった原因の一つだろう。
コンビニオーナーは「仕入れも経理も考えなくていい、ただ売ることに特化しなさい」って言われて独立させられた存在だ。いかに目の前の客のウケをとるか、というそれだけ考えてきた。
巨大流通システムの末端であるコンビニというのは、別に権力を志向なんぞしていない。ただ「お客様のため」だけを目指してシステマティックに組み上げてきた結果としての現在の形がある。だが、まあ最近話題になった例でいえばウナギが絶滅しそうだとか日本の漁業の現状がおかしいとか言ってるのの片棒かついでいる*1のは「お客様のウケをとる」のを最優先で「公共なんぞ知るか」という態度のスーパーでありコンビニである。売れ残るのも構わずに鰻弁当を全店舗に10個も20個も積み上げさせ、売れずに廃棄してもかまわない(むしろ廃棄を前提にしないと巨大チェーンのシステムを回すことなんぞ出来ない)というやり方を進めてきた。
そういう場で考え方を作り上げてきたのが彼だ。公共なんぞ何の役に立つ、と書く彼の根幹にあるのは実のところコンビニの理念を主導してきたセブンの会長あたりの丸コピーだし、その意味では彼に自分の考えなんぞないと言っても差支えない。
コンビニは公共を否定する。コンビニの理念の底にあるのはすべてのサービスは民営で効率化していけば成立するというものだ。公共を否定し個人の利得に還元することで全てうまくいく、その視点の元に宅配事業や郵便事業、納税や保険窓口、ありとあらゆる「住民サービス」を取り込んできた。それで成立しないなら、それは民衆の生活にとって必要ないものである、そういうふうに小売業は考える。彼も「売上確保のためだったらウナギ絶滅したって別にいいだろ、人が死ぬわけじゃなし」ぐらいのことは考えてるはずである。書かないだけで。
彼が「書きたいだけ」「公共なんぞしるか」と書けるのは、そういう世界の中で彼が認められてきたからである。だから公共を否定したとしても、彼は大衆を否定しない。大衆が欲望のままに動くことを否定しない。彼は大衆の欲望の方向がある程度コントロール可能なのを知っている。そういう場において大衆に個人の欲望なんて存在しない。コンビニの店頭でキャンペーンを仕掛ける側も、それに乗る側も、どちらにも個なんてありはしない。彼はそれを知っていながら、彼の書く代物が、その、個の主張の欠如した代物になっていることを止められない。あえて自覚しない。
彼は個の価値なんぞ認めていない。だから「自分は」という言い方の中に隠れようとする。本来なら、文章なんぞどうしたって書き手の個人に依るものでしかなく、読み手もまた、そこにある文章が個人の制限の基に書かれていることを知っているのを前提にするのが個人主義の徹底したありかたなのだから、「自分は」などと但し書きをつける必要もなく、書いたものは全て「自分はこう思っている、他人の異論は好き勝手に言ってろ」という代物なのである。わざわざ「自分は」などと逃げを打っている時点で、彼は個人主義など信じていないのだ。個人主義を利用しているに過ぎない。
彼の書いてる代物は大衆の赴くままにというやつだ。他人など関係ないと言いつつ他人とつるむことを前提にした文章だ。彼は群れとして動く。そして今回も、群れとして個人を攻撃する。そんな彼の書くものに、書く権利など認める必要があるとは思えない。
圧倒的に正しいのは個人の立場でもって「お前うざい、書くのやめろ」と書く権利である。

*1:むしろ主犯格だね。追記注