「役に立つ」と「くだらねえけど面白い」

http://mubou.seesaa.net/article/344870155.html

これと、その元の

「ビジネスに最適化されたもの」と「自分のやりたいように書く」

http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/03/12/011033

これ。

結論から言うと、そんな対立軸はそんざいしません。
ていうか、上記はどちらも書き手目線なんだけどさ。

ちょっと考えてみれば、「役に立つ」や「ビジネスに最適化されたもの」を、受け手がそのまま引き受けてるわけじゃないことは、すぐ判る。ライフハックを実践する人間はそう多くはない。実用記事の多くは「俺には関係ないけど必要な人がいるんじゃないかな」ぐらいの感覚でRTされブクマされる。「役に立つ記事」や「実用性がある記事」は、多くの場合、実際の実用性とは関係ないところで読まれている。
なんなのっていえば、それは、実生活や仕事という題材が、多くの読者のフックに引っかかるから。読者はフックがあって読みやすい、だから読む気になるし、反応しやすい。これが専門的な学問の話になると、反応しづらい。
また、「役に立つ」や「ビジネスに最適化されたもの」は、(本当のところはさておき)書き手の主張が存在しない。つまり無難だから意見もいいやすい。これが政治経済のディープな主張となると、下手に意見をつけるだけで面倒ごとに巻き込まれるかもしれない。
 
まとめると、読みやすくて無難だから、知り合いと話題を共有しても意見を違えて気まずくなったりしないから、「役に立つ記事」や「実用性のある記事」は沢山の反応がもらえる。つまり、天気や医療話といったレベルの、害のない世間話として機能している。
天気の話題も医療の話題も、多くの人にとって「実用的」「役に立つ」というカテゴリに入るだろう。だが、田舎のじいちゃんばあちゃんたちの、となりのAさんが糖尿だ、親戚のBさんが高血圧だ、などという話題に対し、「実用的」で「役に立つ」会話をしているなどとは言わない。あれは日がな一日、同じ話題を飽きずに繰り返すだけの世間話であることを大半の人は知っている。ネットのライフハック記事も基本的には同じだ。

問題なのは、「実用性のある、役に立つ記事を書け」という強制力が、webには常に存在することだ。

などというのは、ブロガーという立場にいるがゆえの思い込みだろう。
だからリンク先の提示する対立軸は、書いているとおりのソレではない。
 
次に、彼らはなぜ、そういうふうに思い込まないといけないのか。
ライフハック記事にしたところで、一応は文章である。書く側はそれなりの時間を使って、それなりに気合を入れたり入れなかったりしながら書いている。だから記事の内容でもって「あれは俺らの書いてるものと違う」などと言われても、読む側からすれば同じ暇つぶしなんだから変わらないじゃないかとなる。
 
「同じ」だから嫌なのである。同じ領域でシェアの奪い合いをしてるから気に食わない。あんなのが俺の書いてるものと同じわけがない。俺は違う、と言いたいのである。
 
さて、「くだらねえけど面白い」「自分のやりたいように書く」は、どちらも直接的には自己主張しない文章だ。主張しないから読みやすい。本来、そういうスタイルの反対側に位置づけられるのは、政治なり経済なり趣味なりについて、他人と意見をぶつけて押しのけてまで主張しようとするタイプの文章である。つまり政治ブログとかのアレだ。
勘違いされるが「主張」は有用性とは関係ない。というより「実用性」なるものが全く均質に存在などするわけがない。一方の主張の提示する現実面で「役に立つ」ことが別の場面で「実用的」であるなどナンセンスの極みであるのに、彼らはなぜ、「実用性」を見つけて批判しておきながら、もう一方の、自己主張を述べる政治経済ブログとの対比を行わないのだろうか。
簡単に言えば、そういう「主張」のある記事と関わり合いになりたくないのである。とくにリテラシーを要求されない世界に足場を置くことが、彼らの文章では大事である。
 
そうした彼らの無難で読みやすい文章に問題がないかといえば、これは当たり前だが問題がある。主張しないふりをすること、それ自体が、どうしたって欺瞞にならざるをえない。
例えばリベラルというのは煙たがられる。なぜかといえば「俺は俺の主張をします、あなたはあなたの意見があります。あなたは俺の主張に同意しなくともよろしい。あなたも好きに主張しなさい。俺はそれに同意しないかもしれないし賛同するかもしれないけど、それは個人それぞれの読解と考慮の上であなたの意見を斟酌したものであって、あなたの意見とまったく同じにもならなければ、まったく影響を受けないわけでもない」という前提のもとにリベラル派の意見は書かれる。前提は前提だからいちいち書かない。分かり合えないのは当たり前で主張する。相手に相応の「読む覚悟」を要求する。それは「無難」で「読みやすい」の対極にある。和気あいあいと仲良く「いいね!」をお互い飛ばしあうわけにはいかない。そんなのが無難で読みやすい記事が溢れるネットの中にあれば、どうしたって読みたくなくなる。
「主張しない」彼らは、彼らの流儀を守ろうとすればするだけ「主張する文章」と対立し、そのスタイルにおいて「主張しない」という主張を押し通すことになる。
さらに言えば、ライフハック記事は実用性という窓口があるがゆえに、現実の様々な主張とどこかで対決せざるをえないが、彼らのスタイルは、そうした窓口を持たない。
というより、もともと、そんな窓口は必要なかったのである。片隅の暇つぶしだけ読んで現実のすべてが塗りつぶされるわけではない。

彼らが書いているように、かつて「自分たちの占有物」だったネットの頃には、むしろ主張する書き手ばかりだった。主張が飛び交っていたから、それを逆手にとった「主張しない」というスタイルが成立した。
しかし時代は下り、ネットの主役は「主張する個人」ではなくなった。主張は数えきれないほど細分化され薄まった形となり、企業の提供するサービスの枠組みに収まるようになった。そうした中、彼らは「主張しないスタイル」であるがゆえにクローズアップされ生き残ってしまった。
ただ、そのスタイルは周囲の誰もが自己主張していたからこそ逆説的に成立しえた形だ。「主張しないこと」が幅を利かせ大きな領域を占有していく過程で、彼らのスタイルは、薄まって主張しない人たちを動員し、主張しないことを声高に主張する装置として機能するようになっていった。彼らが何かを意図しているわけではない。ただ、彼らが個人としてそこに人を集め、個人として今現在のネットの形を肯定するように存在していることが重要なのである。

今回の、彼らの提示する二項対立の図の本質は「役に立つ」「役に立たない」ではない。
ソーシャルという枠組みに動員された中で、それでもなお個であり続けるかという話こそが本筋だ。彼らは「書き手」という立場が成立しているがゆえに、書いていることイコール個の成立と思い込んだ。だから同質の内容でありながら「書き手」という形式の見えないライフハック記事を嫌った。
というよりコンビニ店長のほうは、もう明らかに読者を個人とは認めてないでしょう。PVがどうこういう話題に拘るのは、単に読者=ページビューの数字だとみなしてるようにしか見えないし。「書きたいように書く」ために、読み手それぞれ、という概念を切り捨てたんだろうと推測する。

こんなところで切り。