もう少しだけ大人になりたくない俺へ

明後日の方向に石を投げてるような話だというのは承知の上で、「ゲーム」の課金/販売について。

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「一定量課金するまでレアが出ないようにするような悪質なことはしていない。イベントや課金状況を見て、盛り上がるようにガチャの調節をすることはあるけど」
という話を見かけましたが、本当なら、十分悪質です。
http://sipo.jp/blog/2012/05/post-4.html

「賭け事」としてみた場合、胴元が確率を操作するのは、上見れば判りますが、とてもヤバイです。
けれど、上記リンク先でも、何が悪質なのか、慎重に狭い範囲で限定しつつ言及していますし、中途課金されるゲームとそうじゃないゲームを分けているわけですが、つまり従来のゲームのような、まるごとパッケージングされたソフトの中ならば、リンク先のような「錯誤させる内容」はゲームの演出のうちになります。

プレイヤーのアクションに対してリアクションを返してくれるのがコンピューターゲームであると同時に、そのリアクションは必ずズレていく、ということが核心です。ズレたことが出来るんですね。それは、アナログゲームであれば将棋の手を指したなら相手が予想外の手を返してくる、というような「駆け引き」なりの領域に関わってくるのですが、コンピューターゲームがそれと違うのは、将棋で王手飛車取りを指したプレイヤーに対してスペードのエースを叩きつけても構わない、という点です。それはコンピューターゲームの側による「後出しジャンケン」なのですが、後出しがある程度まで許されてしまう。
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20120427

たとえば、初見殺しなアクションゲームなんか幾らでもありますし、RPGなんかも唐突な展開、強すぎるボスは常套手段です。レースゲームなら本当のカーレースより追い抜きやすく追い抜かれやすく多少の位置関係や物理法則は誤魔化します。そういう「演出」が出来る、一方で「ゲーム」であり一方で「メディア」であるのが、ビデオゲームの従来のゲームになかった強みなんです。今回は、ゲームの娯楽演出の方面じゃなく、課金する部分でやったから問題化したわけで、「盛り上がるように調節する」こと自体は、誰もが知っているとおり、「ビデオゲームならば当たり前」です。
だから「モンハンもやばくね?(http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1710896.html)」などと、やや見当違いの話も出てきてしまうし、それに対して
「問題となるのは換金性(http://kirik.tea-nifty.com/diary/2012/05/post-4ba6.html)」と、えらく真面目にレスを返していたりします。
他所では賭博が悪質であるのをどうにかしたいというふうに問題を限定してクローズアップしているわけですが、今回の話は、一歩間違えると(間違えないように業界の皆さん頑張って危険シグナルを幾度も発したり、いろいろやってるわけですが)、その従来のビデオゲームならではの、本来なら長所であるはずの要素にまで規制や自粛が及びかねない、という話だと受け止めています。

いい記事がたくさん出ているし、業界のほうは穏便に済ませようと努力してると思いますが、一方で、極端なバッシングも目立ってしまってるのが気になりますし、またこの先、ただ単に今回問題になった手法を自粛して、「手法がより巧妙になる」だけであっても、後からもっと(それこそ、法律でソーシャルゲーム界隈が丸ごと規制される形で)話がおかしくなるかもしれない(そうならないよう「業界が成熟して欲しい」というメッセージが各所から発されてますが)。

少し長くなりますが、引用します。

「全体に、浮きが高くなってます?」(中略)
「重力の設定、ちょっと変えてみました。他には?」
「あと、キャッチが入りにくくなったような……間合い、狭くしたんスか?」
「うん、惜しい。今、つかみ系が強いみたいだからね。通常キャッチとコマンドキャッチの発生、システム調整で一フレームずつ遅くしたんだ」
(中略)ヴァルカンシステムによるネット流通がもたらしたメリットの一つに、このようなフレキシブルなバランス調整が挙げられる。かつてはたったひとつの調整ミスで破壊され、うまくいってもせいぜい一年で「煮詰まって」飽きられてしまっていたゲームバランスに、常に人の手を加え続けることによって、揺らぎと安定を与えているのだ。
(中略)このような調整は、個々のソリッドの個体差に覆い隠されて、一般ユーザーにはほとんど気づかれることはない。しかし、保険会社が掛率を操って儲けを出すように、統計学的レベルでは、U・S全体の流れは常にSEPCOMの掌中にあるのだ。
このため、「一度極めちまったゲームは面白くないぜ」などとうそぶくコアなゲーマーも、U・Sを極めることは決して出来ない。なぜなら、極めるべきその『頂点』は、常に移動するからだ。至高の境地を目指して日々研鑽を続ける求道者的ユーザーたちは、実はSEPCOMに鼻面を引かれて、エッシャーの無限階段をぐるぐる回ってるだけなのである。
俺がその事実を指摘すると、結城さん、「うーん」と唸って、
「まあ、そうは言っても、テニスをする人の全員がウィンブルドンを目指すってわけじゃなし」頭を掻きながら、「U・Sをやってる時間そのものに意味っていうか、価値がある、そんな風に思ってもらえないかなあ」

古橋秀之ソリッドファイター」P67−68(アスキー・メディアワークス・2008/初出1997)

架空の対戦格ゲーを題材にした小説の一節です。SEPCOMて名前は言うまでもなくSEGACAPCOMをくっつけたもの。
この小説では、メーカー管理者の手でゲームバランスをいいように調整してる「U・S(Ultimate Solid)」という格闘ゲームを巡って話が展開していきます。小説の中では、このタイトルの別売コンテンツ(サードパーティによる各種オプション)も出てきますし、バグ技も、ハメ技も出てきます。プレイヤーも、ストイックにプレイを極めるタイプから「お遊び」でギャラリーを沸かせるタイプまで、雑誌ライターやってるプロから格ゲーが何なのかすら理解せずレバーをガチャガチャやってるだけの子どもまで、真剣になりすぎてゲーセンの格ゲーだというのに「お遊戯じゃないんだ」と言っちゃう痛い人から「たかがゲームや」と放言しちゃうプロデューサーまで、様々な人たちが登場し、お話に絡んできます。そして、ここに登場する全ての人たちは「U・S」というゲームのプレイヤーですし、ここにある様々なプレイスタイルの全てが(幼児がコインを投入せずガチャガチャやるだけの姿も含めて)「U・S」というゲームの裾野です。

改めて言うまでもないことです。が、まかり間違ってしまうと、「ここからがゲームであり、ここからがゲームプレイである」という線引きを、法律やメーカーからの自主管理によって、あるいはユーザーを含めた社会規範意識によって、明瞭に引かれてしまう、かもしれない。何がゲームなのか、何がゲームではないのかという定義を現実に力を持った言葉でもって宣言されてしまう、かもしれない。

ゲームは、言葉で明瞭に定義してしまった瞬間からゲームじゃなくなってしまう、という直感は、ユーザーなら何がしかで実感しているのではないでしょうか。研究者の方々には悪いけれども、他者から強要されたと感じたらゲームは終わってしまうというのは、言葉で定義化するという行為そのものに対しても当然ながら発生します。(だから、今書いているこの項目もまた、そういう危うさのラインにあります)
「なにがゲームなのか」「なにがゲームじゃないのか」を外から決めつけてはいけない、そういうデリケートさがゲームメディアにはある。だからゲームじゃないようなものもゲームと名づけられて流通していくし、それを否定しないことで「ゲームらしいゲーム」もまた定義づけの制約を免れてゲームとして成立する。

例えば。『[NS] 任天堂は以前からコンプガチャを否定していた(http://b.hatena.ne.jp/entry/n-styles.com/main/archives/2012/05/09-042000.php)』という記事に対して、「覚醒のDLCは何だ」と違和感の表明がなされています。この場合、「仲間に出来るキャラは全部仲間にする」「アイテム・金は全部ゲットする」「外伝マップ・外伝シナリオは全部クリアする」のがユーザーの定義する「ファイアーエムブレムというゲーム」である、という、ファイアーエムブレムのファンであれば、誰もが当然と思ってしまう、「FEへの思い入れ」というのがまずある。サービスとしての追加キャラ追加マップと言われたって、FEというゲームでは実質追加じゃなくゲームの本質そのものじゃないかと、そういう意見も十分にありうるわけです。

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メーカーの考えるゲームの本質と、ユーザーの考えるゲームの本質は違います。当たり前の話ですが。そして、たぶんこの「同じものに向き合っていても互いに捉え方が違う」ということを、どの程度まで許容できるかが、イコール、ユーザーやユーザー周辺環境の広がりであり、メディアコンテンツの基盤になるはずです。細かく課金するというのは、そうした「捉え方の違い」を露わにします。それは、どういう意味をもたらすか。

将来的に、ある種の中途課金みたいな形態がゲームのそれなりの主流になったりして、それを基準にした評価する市場や批評家が出てくるだろうという推測の元に、彼らは何を考えて俺らとどう評価基準が違ってくるのか
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20120507

先日、上記のような問いをたててみたわけですが、実は、半分ぐらいは「こうなるだろう」という予想をしています。つまり、

ひぐらし」は、コンシューマーで「普通」のゲームになっちゃってるぐらいに、ビジュアルノベルの分岐シナリオの形式性に依存して成立してて、というか、そういう作品販売のパッケージの形式に対してシナリオばら売りスタイルによって「ひぐらし」としての作品の意義が成立してるとは言えて。
「売り方」も批評対象のうち、と考えるにあたって「ひぐらし」が良サンプルというのは、ノベルゲー評論やってる人もコンプガチャ課金問題に意見を持たないとダメよ、という良い証明だと思います。

というわけで、「ひぐらしのなく頃に」という例が、多くの場合に参照される現実解となると思っています。つまり、既存のゲームパッケージの形式に強く依存する形をとる。別の言い方をするならば、ゲームデザインとしての進歩の足を止めて、現時点で広く受け入れられているゲームジャンルの形式に強く囚われるようになるだろう、という予想です。*1まあ、誰でも同じ予想してるだろうとは思いますが。

以前に書いたとおり、金を払う行為というのは、否応なく強力な「区切り」としてそこにあります。現実として金がなければそこで終わりますしね。だとすると、プラスアルファでお金を払わせるような仕組みというのは、どういう形をとるか。「新しいゲーム性」や「プラスアルファの実験的な試み」としてでは、お金は取れないでしょう。ではどういうふうにお金をもらえるかと考えるなら、「コンプガチャだけじゃない。ケータイSNSゲーム課金の仕組み解説(http://sipo.jp/blog/2012/05/post-4.html)」でも、課金アイテムはプレイヤーの「守り」の感覚に訴える形になっていることが非常に判りやすく説明されてますけども、プレイヤーにとって用途がわかりきっていて、見通せる(ように思える)ほうがお金を払いやすいというのがあります。RPGであれば回復アイテムというのは既に常識の範疇ですからお金が取りやすい。

もっと積極的に述べますと、別料金という形で細かく分断されてしまった情報の断片たちを「ひとつのゲーム」として統合しようと思ったとき、もはやゲーム性でもシナリオでも、くっつけられないんですよ。強引に寸断されて「ここで終りなんて酷い。続きが気になる」ような作りを採用するなら、別料金で続編がたくさんあっても、ひとつの作品として認められるでしょう。昔ながらのゲームセンターのコンティニュー方式ならいいわけです。けれど、アイテム課金のような、基本ソフト単体である程度まで完結していて、そこからさらに別料金を支払わせようとするような形式を想像してみたとき、一体、何を期待して追加で金を払うのか。既存のフォーマットに収まるような形でないと、多くの場合、納得できないでしょう。ということは、無料ゲームの基本形としては、お金を払いやすいような「よく知られた形」でないと、成り立たないという話になりかねません。

ということで「ゲームの途中で細かくお金を払う」ような仕組みが大きく広まった場合、ユーザーは保守的に振舞うようになり、ゲームデザインの大枠もまた、既存の様式が非常に強くなるだろう、というのが私の予想です。つまり「なにがゲームなのか」という問いに対して「RPG」とか「SLG」とか「STG」といった明瞭なジャンル枠の返事がなされるようになる。なぜなら、カッチリしたフォーマットを用意することでしか、メーカーとユーザー、ユーザーとユーザーの間の様々な「捉え方の違い」を顕在化させずにいることができない。「ひとつのゲームを楽しんでいる集団」であり続けることが困難になるからです。

現実的な話としては、無料ゲームや中途課金で稼ぐタイプのゲームだけではゲーム業界は回らないでしょうから、既存のパッケージとして完成品になってるものの販売を継続してそこで新ジャンルや新しいゲームデザインを開拓しつつ、そこからのフィードバックでもって課金ゲーをまわして多少なりとも回収するような、バランスをよく考えての方策がとられるべきだと思っています。

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また、先日、「賭け事とゲームは全く別である」という意見に噛みつきました(http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20120430)が、実際問題として境目を見つけるのは困難であり、無理だろうと思います。なぜなら、「ゲームは、プレイしている個人がゲームを楽しんでいると思いゲームとして行っていたならば、株取引だろうと読書だろうと日々の食事だろうとセックスだろうと、どんなものであれ、それはゲームである」からです。「自分でゲームだと思ったらゲーム」という、このシンプルな定義は、業界人や研究者がどれだけ論を尽くそうとひっくり返せない厳然たる「ゲームの定義」です。何だってゲームになりうる。それを潜在的に知っているからこそ、ゲーム業界関係者は、ゲーマーたちは、ゲームに無限の未来があることを信じていられる。

さて、「どんなものでもゲームとなり得る」ということは、つまり、ギャンブル、金を賭けるという行為そのものをゲームの内側に取り込み、ゲームとして楽しむことも可能である、わけです。賭けてる人が、それをゲームとして楽しんでいると意識し、ゲームとして行っている限り、それを「ゲームではない」と否定することは第三者にはできません。ギャンブルだから盛り上がるというけれども、盛り上がりそのものをゲームの内側に取り込んでしまうのが人間の意識のややこしさなんです。そして、実際、自分の生計を立てるような仕事を「ゲームとして楽しんでる」と意識したり、株取引をゲーム感覚なんて形容してみせたり、麻雀あたりで「金を賭けることで勝負に真剣味が増して面白くなる」なんて言っていたりするのは、一方において、そういう意識のあり方です。そして言うまでもないですが、そんな理屈で賭け麻雀をやっている現場を警察当局に押さえられたなら、(よほど高額じゃない限り見逃してもらえるにしても)もちろん違法です。

さらに言えば、ソーシャルゲームのようにビデオゲームの既存の形式をなぞり、あるいは多少あやしくても、メーカーが「これはゲームです」と発言してゲームソフトとしてリリースしているという外形的な要件によって、それを受け取る人は、それをゲームとして受け止め、ゲームとしてプレイしようとします。つまり、内実がどれだけ黒に近いグレーであったとしても、「ゲーム会社がゲームソフトとして提供する」ことで、「プレイヤーはゲームとしてプレイし」、プレイヤーがそう思ってるんだから「それはゲームである」という定義が成立し、「ゲーム」になります。今回、厳密にゲームを捉え直そうと考える人も少なからずいるでしょうが、それだと今までゲームであった様々なソフトを「これはゲームではない」と除外し、現実的ではない枠組みを発見して地に足がつかないあたりで力んでみせるか、単なるソーシャルゲーム憎しのヘイト発言で終わるでしょう。

現実として、ゲームと種々の違法行為を定義的に分けうるかのように述べることは、はっきりと危険です。ゲーム制作側もユーザーも、自分たちではゲームを作っているつもり、ゲームをやっているつもり、それでいて、一線を軽々と踏み越えてしまっていることに全く気づかないかもしれないからです。今回の例が典型的ですが、「ゲーム」という言い訳は、ほとんど万能に機能します。そして、自分たちがそれをゲームだと思ってる以上、外からどれだけ文句を言われようと、「ゲームを作ってるだけなのに何で自分だけ」としか受け取らないかもしれない。何が良くて何が悪いのか、外から単純に線引きできる話ではない。ですが、今は限られたソーシャルゲームの業者が自主規制してみせれば済む話も、この先、各種スマホのゲーム業界で、今回指摘されているような「悪質な儲け方」が組み込まれた「ゲーム」が様々な業者(暴力団関係含む)から際限なくリリースされ続けるであろうことは予測できますし、それらと「大手」とでハッキリとした区別つかないのでは、法規制やむなし、となりかねない。業界が強く意識してグレーゾーンにはっきり背を向ける必要があるというのは、そういう先を見越した話でもあるはずです。

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最初に引用した小説内で、「U・Sをやってる時間そのものに意味っていうか、価値がある、そんな風に思ってもらえないかなあ」と言っていたゲーム会社の調整担当者の、もうひとつの発言を引用します。

「そう……ユーザーの時間やお金や、いろんな想いまで奪い取って、あとには苦い思いしか残さない。それが、U・Sというゲームなのかもしれない……そう思ったんだ」
・「ソリッドファイター」P578

だいぶ弱気の発言ですが、ゲームは常に、そういう陰に隠れた負の側面を抱えてます。
でも、そうじゃない、と、待ってくれ、と。小説の主人公の「俺」は述べます。

アーケードゲームや家庭用ゲーム機のオフラインでクローズドな環境で数十年かけて発展してきたゲーム文化は、「盛り上がるように確率その他を調節するのが当たり前」な、従来の多人数で遊ぶゲーム文化とは異なる領域を開拓してきたわけですが、オンラインで再び多人数で遊ぶのが当たり前になったならば、同じようにはいかないのが当たり前です。アナログの多人数ゲームとビデオゲームの両方の良いとこ取りをしようとして、結果、今回のような話も出たのでしょうが、できれば今後、良い方に転がってくれればと思います。

*1:どこぞの井上明人さんみたいに「ひぐらし」を高く評価している人には悪いのですが、私の「ひぐらし」評価はエロゲ・ギャルゲのジャンルで一通りやり尽くした手法や主題のダウンサイジングされた焼き直しであって、新しさはない、というものです。