ゲームとギャンブルの境目についての追記

http://dochikushow.blog3.fc2.com/blog-entry-2274.html

返事になっているようで返事になってないと思うし、範囲にしてるところが違う気がするので一応書くのですが。

ギャンブルの側からみたとします。

 博打は負けて借金が嵩んでも「勝てば全部帰ってくる」ってのが博打なの。
 それが博打とそれ以外のすべての娯楽との違い。別にゲームだけの話じゃない。

「借金が嵩んで」いる、というのは、それなりに深みにはまった状態です。最初に手だしするときには、「負けて」ないわけです。んで、ソシャゲでもそうであるのと同様に、パチンコみたいなギャンブルも、ライトユーザーとヘビーユーザーがいるよな、という話になると思います。つまり、「勝てば全部帰ってくる」というほど追い詰められていない、「こんなのは小遣いのうち」「酒飲まない分だけ精神安定に投入してるんだよ」とゆって常時月に何万かすってるような人とか。そこまでは「ゲーム」のうち、という言い方も、向こうにとっては可能です。(てゆか、アニメ系のスロット機なんか、そういう「ゲーム代」という感覚で遊んでる人いましたよね。「実機買います」ゆったり。それと「ゲームとして面白いんなら、ゲーセンのパチンコをやってればいい(俺はたまにやってた)」の意識の境目はどこに求めればいいんでしょうか。「俺は違う」ということ?)そういう捉え方をした場合、そこから一気にヘビーユーザーに転落して数百万の借金を背負ってしまうまでの敷居が非常に低いと思われるのが問題、という言い方になってしまいます。射幸心を煽る率が高いのを規制するとかは、そういう話でしょうね。てことは、あちらにとっては、そこそこ当り率を低く設定して射幸心をあまり煽らないのならばゲームのうち、と主張してきても、おかしくはない。実質レベルで議論してしまうならば、平行線じゃないかなと。

さて、振り返ってみた場合、現実的に、ギャンブルというのは、どれも純粋に賭けるだけ、とはならないです。上記のように、常に「一定の割合で負ける」ことを楽しみのうちに織り込んでるのも当たり前だったりします。というより、普通にいってゲームと賭け事の親和性が高いのは、常識です。トランプであれ双六であれ、ギャンブル史を取り除いたゲーム史なんて成立しないでしょう。
それでもコンピューターゲーム業界が博打とゲームは違う、といってしまえるのは、業界やユーザーが、それなりに意識的に違うものであろうとし続けたから、だと思っています。以前、『それは「ポン」から始まった アーケードTVゲームの成り立ち』について言及したことがあります。

この本、「ゲームはギャンブルじゃない、ゲームの成果は金に換えるもんじゃない」ていう立場で一貫して書いてます。インベーダーブームが当局の介入で理不尽に終わらされたとか新風営法の理不尽さの話とか、賭博まがい扱いされたことでゲーム業界がいかに苦労したか、みたいな話がたくさん載ってる。コンピューターゲームアイデンティティーを「物理的/現実的/社会的な見返りを与えない/求めない/生み出さない」点に見出し、それを全体の枠組みのひとつとして採用してます。
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060329

つまり、ゲームとギャンブルが違うものだというのは、当たり前にそうなんじゃなくて、様々な努力の結果としてそうなった、という話です。

私の感覚では、

ゲーム内のデータなんか、究極的には無価値だから。ソーシャルはそこに人間関係持ち込んだから多少の価値が発生したけどそれだって基本無価値。
http://dochikushow.blog3.fc2.com/blog-entry-2273.html

というのは、それらが無価値であるようなクローズドな環境であったからであり、業界やユーザーがそのような価値観を共有しながら文化を育てていったからであって、実際において、その価値観を維持しないなら、さほど根源的に異なりうるとは思えません。噛み砕いて言うと、価値観を共有してくれないユーザーや業者が以前に倍する勢いで流れ込んでくるなら、そこはアッサリひっくり返される可能性が高いです。

当たり前のように別物扱いし、違うから違うのだ、という態度では、この先において、けして良い結果はもたらさない、という主旨です。

どうも気になるのですが、
この記事とか、「メディアとしてのゲーム」を持ち上げてるんですけども、ゲームがメディアたりうる条件て、すごく危ういということを、どこまで意識してるんだろう? とか。意識していても下手に書けないだろうとは思うし、皆が判っていて言わないでいるのかもしれませんが、一応あえて書きますと、課金やRMTやとゲーム内の行為や結果が細かく分節されて実社会の「現実の価値」と細かくトレードされたら、そんだけ「ゲーム内で創造された価値」が密輸出されるわけで、「メディア」としての作りや「価値創造」の足かせになるはずなんですけども、そういう話って、なかなか出てこない気がします。

せいぜい数十年の歴史の積み重ねでしかない価値観を今後も守るのであれば、コンピューターゲームなんて、いつでもパチスロと同じ程度にになりうる、という心づもりでいるべきじゃないか、と、実にお仕着せがましい話でした。