「あなた自身の物語」ではない、という選択『シュタインズ・ゲート』(Xbox360)

ネタバレ。
いまさらプレイしまして、続けてアニメも見ました。たいへん面白かったことを報告すべく。

感心したのは携帯電話まわりの演出で、メールの内容表示が「もうひとつのテキストボックス表示」として効果的に使われていた点。基本的に静的なノベルゲーまわりにおいて、「あまり動かないこと」および「映像と文字表示の組み合わせを取り込んでいること」という特質をきちんと形にしてるなと。アニメ化された映像を見ると人間のほうを歩きながら会話させたりと動きを与えつつもメール文章を画面でしっかり読ませるだけの尺は確保したり、静と動のバランスにえらく気を使っていて大変な苦労だと思ったのだけども(ゲームで2ちゃんねるログっぽい画面表示だった部分はtwitterモドキの画面表示に切り替わってて、書き込み発言がどんどんスライドして流れてくのも取捨選択の手法として当たり前だが映像のプロは流石によく考えてるなあと思った)、原作であるゲームのほう、それだけ携帯メールに重点を置いて話を作り上げつつ、それがノベルゲーとしてのシステム及び画面構成上で大事になってる点がお見事。
フォーントリガーなんてカッコよさげな名前で、実際は携帯でメールを受ける/送る、電話をとる/かける、という動作を「システム」として文章送りとは別ボタンに割り振ってあるだけ、それこそ「どうってこたない要素にカッコつけた名前で凄そうに見せかける」中二病レベルな「ゲームシステム」なんだけれど、逆に、ゴチャゴチャと要素を付け加えることなく、ボタンひとつのシンプルな動作として気持ちや意識の切替を促す仕組みを用意してあるてのはデザインとして突出して優れてるといえる。(ただし携帯を開いてからの機能の練りこみについては不足していて、ちょっとしたとき細かくウィンドウを開いてくのが手間だったり、そこから通常画面に戻るのが面倒だったりする。発表されてる次回作がスマホ持ち歩いてるらしく機能がゴチャゴチャ増えてたりするので、奇跡的なバランスに近いぐらいの出来、といった言い方が妥当かも)

時間旅行の手段が一つじゃない、というのも上手く考えてあって、「失敗して同じ場面を別の角度でやり直す」手段のタイムトラベルについては、プレイヤーに手出しさせない。プレイヤーとして操作するのは、「異なる展開」に移行するシークエンスのみ。これが後で効いてきます。

本作の特徴として万人が認め特筆すべきなのは、主人公、岡部倫太郎の演じる狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真でしょう。「中二病」キャラクターを自覚的に演じるイタい大学生という設定ですが、つまり、岡部と鳳凰院という二重人格で、作中で岡部は、最も大事な選択を行うときに鳳凰院というキャラクターを呼び出すことで乗り切ろうとする。

昔のビジュアルノベルの話をすると、「物語の進行を請け負う人格」というのがありました。http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20051118その他で書きましたが、物語に深入りするとき、毒電波に影響されて行動したり、鬼の血が抑えられなくて暴走したり、殺人衝動がわき上がってきて吸血鬼をめった切りにしたりする。一方に「常識的な、控えめな、内省的な人格」をキープしながら、暴走しがちな設定人格をもってジェットコースターに乗り込むわけです。今どきは選択肢の主体人格もだいぶばらけましたが、原則としてプレイヤーが選択肢を選ぶときは内省的な主人公人格の立場でもって選択する。
今回の場合、鳳凰院凶真がこの「物語の進行を請け負う人格」にあたるわけですが、あくまで岡部倫太郎の側に主導権があるのが違いです。つまり、岡部は困難な問題を意識して鳳凰院に投げちゃう。もちろん鳳凰院であるときも岡部は自覚してますから、責任放棄といった話ではない。そうじゃなく、「キャラクター」という何者かに仮託するんですね。

いま、コミケ秋葉原などの二次創作文化というと、キャラクター論というのが必ず出てきます。キャラクターを軸に初音ミクとか語ったりするわけですが、そうすると、キャラクターて何ですか、という解説がはじまる。おそらく、「人格」という言い方を使うべきですらないんだと思います。フラットな、スノブな、紋切り型の、パッケージ絵でしかないような「キャラクター」に、僕らは自分自身を全部預けちゃう。ペルソナ、てわけでもないでしょう。同じ場面で異なるキャラクターを使い分けたっていいんです。誰もが岡部を岡部だと認識してる中で、岡部自身だけ鳳凰院であろうとする。
バットマンなんかだと奇怪なコスチュームしてるバットマンのほうが本人格でブルース・ウェインが演技だったりします。スーパーマンも同じく。アメコミってしばしばコスチューム姿として人間関係を構築してってコスチューム姿として悩むんですよね。バットマンの格好を真似する偽物は偽物でしかない。キックアスなんかでも、ヒーローに憧れる虚弱主人公は瀕死の重傷を負ったあと、ガンスリ義体よろしく(キックアスはたぶんガンスリの戦闘少女を洗脳されてるヒロインと人体改造されてる主人公に二分割したんだろうな、と)痛みを感じない改造人間になっちゃいます。そっちとは違うということですね。

本作のクライマックスでは、鳳凰院凶真というキャラクターに、大事な決断を仮託しちゃいます。それがもっとも共感を呼ぶつくりとなってる。こういうのは、「自己や自我」を大事にしてたら成り立たないです。ギャルゲってのは元々がヒロインの少女に全部をあずけちゃう形式で、「あなたの物語」ではないことを追求してきた側面があった。それをブレーキ踏んで逆行させよう、ということで、なんかいろいろややこしい流れがあるんですが、だいぶすっきりしました。

追記。
ダメなとこはいろいろあるんですが、アニメ版についていえば、あんだけいろいろ細かく微調整かけてまとめ上げていったのに、ぎゃくにそれゆえにか、岡部と鳳凰院という使い分けが上手くいってなかったのが中々難しいなあ、と。声優の「熱演」が、人気の大きな要因だと思うんですけども、一方でもっとなんか演技の手段があったんじゃないかとか、考えちゃいますね。