伊藤計劃『ハーモニー』感想(「ハーモニー」「輪るピングドラム」などネタバレ)

「あの、『カエル君 東京を救う』って本は、どこにありますか」(輪るピングドラム9話)

 まず先に書いておくが、あまり面白い本ではない。というか伊藤計劃についてはデビューしたばっかりの新人が雑誌の都合やネット論壇の都合や作者自身が死んじゃったのやで過剰に持ち上げられてる気がするので、そのへんを差し引けば、こんなもんじゃないかなと思う。
 さておき同世代団塊ジュニアのゲーマー世代らしいひねくれ方ではあるのでとっつきやすく、文章は上手で読みやすいし、小ネタは面白い。現実世界の道具が全部バーチャルタグ付けされてて検索簡単になってると結果として部屋を片付けず散らかりっぱなしになる、というPCあるあるネタが繰り返し使われてて、作品全体への類推・投影がなされてるのだが、ソフトウェアが十分に進歩してしまえばハードウェア(本棚など)での管理は必要ない、てのがキモだ。

 いちおう「虐殺器官」「ハーモニー」とオリジナル長編2本読んだが、伊藤計劃が重度の押井守フリークで劇場版パトレイバー大好きな人なのがよく知られてるわりに、東京ネタじゃないのが気になった。というのは、読む前に下記の展示を見に行ったので。

メタボリズムの未来都市展
http://www.roppongihills.com/feature/metabolism/metabolism.html

「日本発の世界的思想展開」であるらしい、パンピーのこちらから見るとSF特撮・アニメの風景や大阪万博に結実し代表されるような都市計画およびそれに沿った建築思想の俯瞰を試みた展示で、建築模型も豊富で非常に面白い展示だったのだが、とりわけ直前に森ビル展望台から現実の東京を俯瞰できもして、現実の東京が建築家の思想を反映させず、さほど「未来」を展望していないのがよくわかったりした。
 現実の東京に十分に反映されなかった理由はさまざまだと思う(スローガンをぶち上げるだけぶち上げといて仕事にありつければいい、という考え方ならば、十分にその役割を果たしてると思うし)が、特にこの「メタボリズム」(有機的な、新陳代謝を繰り返していくイメージ)についていえば、ソフトウェアの概念の発展と拡大が、ハードウェアの最たる建築や都市デザインの発展・展開を阻害していった、と言えるのじゃなかろうか。「虐殺器官」でも監視カメラが山ほど配置された市街の描写は、都市デザインの側ではなく、人体の側やソフトウェアの側の問題として描かれていて、市街そのものは言ってみれば昔からの町並みというやつだったりする。というか、その手の「ソフトなゾーニング」のアイデアが弄ばれてるときは、物理的な障壁などで「強制的に分離排除する」のではない、目に見えない仕分けの手法について強調していたように記憶してる。メタボリズム展で提示されるような建築・都市デザインは、人の実際の生態にあわせた形での都市の新陳代謝しやすさを題材にしていたが、そういう「人に即した形」は言うまでもなく空間デザインでもって人の行動をコントロールしようという発想の先にある(渋滞や通勤ラッシュなどを都市デザインでコントロールしようとしたわけで)ので、ソフトウェアによるゾーニングとは全く重ならない。
 東京湾に巨大都市を建設しようとする計画をコンピューターウィルスが阻害する劇場版パトレイバー1作目は、おそらく、そうした面からもハードウェアからソフトウェアへの主題の移行を示していたはずで、その影響下の伊藤が「都市東京」をさほど取り上げないのもむしろ当然なのかもしれない。

 だが一方でソフトウェアで事足れりという発想は小説という文章芸だから言えたこと、でもある。映像にするとなると、「見えないゾーニング」なんぞ扱いづらくて手に負えない。人間の文明てのは絵(表象)優位のタイミングと文字(コード)優位のタイミングが交互に入り組んで繰り返し現れてくるものなんだろうが、現状この「ソフトウェア」の展開というのはコード優位で回っているのだろう、映像文化に深く絡みつきながら、映像そのものに抽出しづらい(映像に絡んでるから映像にしづらいとも言える)。で、映像側は映像化しにくいソフトウェアを指し示せず、とにかくハードウェアに現状を落とし込んでくことになってるのだと思う。

 つまり、「都市」なんて取り上げてもしょうがないかもしれないけれど、「都市」を指し示さざるをえない。

 だからエヴァンゲリオンだったら「第三新東京市」なんてのを作りもする。「東京」はなくなり地方が舞台なのに、名前は「東京」となる。本来の東京の未来は描けない。代わりに地方を「未来」に、「東京」にする。第三新東京市の高層ビル群が状況に応じてフレキシブルに可動する代物だったというのも「ハードウェアとしての建築物」について軽やかにフレキシブルに、ソフトに扱おうという考え方なんだろう。新劇場版ともなると、もはや人が本来の目的に使用可能なのかも疑わしいほどフレックスな可動建築群が披露され、「都市東京」は薄っぺらな記号でしかないことを露呈しさえもする。95年のTVアニメであれば他人を拒絶することで他人の存在が作品世界に厳然と存在することをまがりなりにも示していたのだが、新劇場版はコミュニティ構築が上手くいきすぎてリア充になった結果、むしろ身内で固まり世界が狭くなってしまった。

 そうして地方、もしくは地域共同体レベルへ逃避しはじめる。というのは、おそらく背景が細かくなってきたことと無関係じゃなく、ネットでファンが背景画像の元ネタを探し出すのが当たり前になるぐらいの「細密な背景」によって、無国籍な世界観が排除されはじめたのだろう。あるいは作劇上せいぜいスクリーントーンのテンプレ背景でしかないような「都市」しか求められていない時代。一方で、そのまま首都消失とゆーか東京の中心部は空洞だったり空白だったりするネタもしばしば見かける。皇居と皇族について語れないがゆえに中心部を空白にせざるをえない事情によるところが大きいのだろうが、東京なり都市なりのイメージは、そのモチーフの主軸を欠き、語り得ないところにおしやられる。
 そうしたなか「廃墟となった東京」という終末戦争モチーフを逆手にとってそのまま都市デザインに持ち込んだコードギアスは、やはり独自の位置づけになるのだろう。租界とゲットーの対比で語られる東京の風景は登場人物達の生きる世界背景としてコントラストがはっきりして有効だ。ただし、ルルーシュらが「学園」の中で生活しているため、租界がどのような場所であるかは不明瞭なままで終わってしまい、実際には物足りない。ルルーシュの二重生活のコントラストは、学園とゲットー(廃墟)の対比になってしまっている。

 ようやく『輪るピングドラム』が東京を主題にすえる。陽毬が探したのは自分のことでも友達のことでも家族のことでもなく「カエル君 東京を救う」で、物語の中の大きな事件は東京の救済である。いかにも全体主義的なモチーフの巨大男性像がリビルドされて東京タワーになったエピソードに象徴されるように、東京の再構築が目指されていた。そこで画期となったのは、東京を面で捉えるのではなく、地下鉄のライン=線で捉えた点にある。線はつまり「コード」だ。コードギアスもまたタイトルに「コード」を挿入していた。東京を語るには、映像で手広く面的に把握するのではなく、ストイックにコードでもって捉えていくべきと喝破してみせた。
 京都の方形構造と対比したとき、東京を江戸城の縄張りから宮城を起点とする「渦巻き状」と形容したのは社会学者の内田隆三だ。渦巻きの長さ、奥行きの深さが東京の中心を見えなくしていると説く。「ピングドラム」はだから、コードの端である荻窪からはじめて池袋へとひとつづつ読み解いていく。そして最終話で「乗り換え」て、線は円環を描くように内側へと折り込まれる。それはまだ中心には達していない。が、その軌道は渦巻き線の中心がどこに向かっているかを指し示している。