バナーを貼ってみました

袖ふれあうも他生の縁といいますか、なんとなく、なし崩しにtwitterで相互鍵付きフォローの形になってしまっている秋葉凪人先生のバナーを貼ってみました。普段バナー貼ったりしないのですが、やはり人間は社会を形成して生きるものだから多少なりとも社会性というものを意識しなければいけないんじゃないかなあと、1年に何回か人間関係の構築に前向きになったりするタイミングというのがありまして、今回もそんな感じです。ここも紹介してやったぜなどと偉そうにいえるほど読まれてはいませんが。

いや、上だと何だかえらい嫌々っぽく読めるかもしれませんが、そもそも私は漫画家フォローなんて何人もしてない。そんななかでフォローしてるわけでして、そもそも、アゴとか頬の角度とか、好きなんですけども。

最近の成年コミックの流行はといいますと、「デッサン向上」ブーム後の、肉の柔らかさを強調したり、アヘ顔という単語に代表される表情をどんだけ崩せるか競争に参加してたり、といったのがしばらく目立ってまして、まあ、それはそれで好きなんですが、そういう「肉体性の強調」によらないエロ漫画というのもずっとありまして、たとえば髪の毛が細かく書き込まれてるのが好きで好きでたまらないとか、瞳の中の星の配分にドキドキしたりとか、素朴にそういった性的な快楽というのを大事にしたいなあと思ったりします。てのは、どんだけ「デッサン」だの「アニメ」だの「フィギュア」だのと擬似三次元との付き合い方が大事であっても、そこはやっぱり、巨大なおめめで、たっぷりの髪の毛で、鋭角な顔の輪郭というのが、私たちの愛する萌えキャラデザインだと思うからです。いくら「デッサンができてない」などと攻撃したところで、そんなのは一番大事なポイントじゃないんです。ひとは、いざ原理主義に立ち返ったとき、西又葵先生の絵がべたべたと貼られた有明の只中で思考するしかない立場以外は、逆立ちしても選択できないことに気づかざるをえない。村上隆のアートが小賢しく見えるのは、立体フィギュアという経路を使って、萌えキャラの二次元デザインの根ざすところを迂回しているからに他なりません。ならば、どこかで現在の「デッサン向上ブーム・ハイエンド主義以降のなんぞ」が終焉を迎えたとき、たち現れるのは、アゴをどれだけ急進的に極められるかという競争なのではないでしょうか。アヘ顔にも肉感たっぷりおっぱいにも距離を置く秋葉凪人の作風は、急速に高齢化していくであろうオタク文化圏の周縁で生きていく私たちに、ひとつの視点を提供してくれている。そんな気がするのでした。