んじゃ、脱線しましたが続き

「高貴な野蛮人」を作中からそのまま抜き出すのはできないし、参照しうるであろう引用元から類推しうるかといえば、だいぶ曖昧だ。ヤマトタケル熊襲征伐に「高貴な野蛮人」とか当てはめたら流石に拙い。そして、和ファンタジーなRPG読みもの文脈の背後には、そういった莫大な神話説話レベルからSFロボアニメまでの遺産を大量に含む。

 では、一般レベルでファンタジー世界はどこぞの「アバター」のごとく植民地もしくはコロニアルな思想をそのまま転写したワールドだと断言しうるのかというと、あの映像世界だとフロンティアな植民地にしか見えないし、どうも今の勢いだとアバターブームでファンタジー世界全般がなんかそーゆーフロンティアな植民地扱いに固定化し定着しそうですらあるのだけれども、それはあまりに気持ち悪い。

 ファンタジー物の小説におけるファンタジー世界が、仮に現実世界のような精巧で複雑で少人数の五感と語りでは捉えきれないほど大きなものであったとする。その世界を描写し説明する唯一の窓口がその小説だ。なら対比的に見出される「小ささ」「単純さ」「完全性」により、その小説の文章は精巧で複雑で巨大な「現実世界じみたファンタジー世界」における絶対的な法則であり、構造であり、システムである。これは、「このファンタジー世界を成立させているパワーの源泉は○○だ」みたいな世界の秘密を暴く類の話じゃなくても、そうだ。

 この対比により、「現実世界じみたファンタジー世界」という見立ては、およそ全てのファンタジー世界の描写を「法則」や「構造」や「システム」に仕立て上げる。文章のみならず、「現実にナンボか劣る以上は一面的な描写としかなりえない」という無体な理由によって、数兆ポリゴン/秒の描画であろうと、そうなる。つまるとこ、現実世界の延長のような感覚で風景やキャラクターの描写を鑑賞するのがまぁ一般的な受容態度と呼べるであろう異世界ファンタジーという手法は(フツーはその不完全さに従事するような描写の矛盾を残したりして、何やかやの安全弁を備えとくだろうが)、それ自体が既に明快な法則性(文章、文体、描写)で「現実」を一刀両断しちゃう代物だ。つまり、啓蒙主義的な視点を内包しつつ隠蔽してます、といった。

 続く