ホワイトアルバムのアニメのやつ

「痛さ」に対しやたら距離を置きたがる話だなというのが1〜2話見た雑感。

 これみよがしに80年代テイストを強調すべくソレっぽいアイテムを舐めまわしたりモノローグを入れたり、全般に登場人物や舞台から一歩も二歩も引こうとする態度を強調する。時代設定なんてのはもうちょっとさりげなく示すか、さもなくば舞台説明な台詞でとっとと通り過ぎるものだと思うのだが、大して意味の無い私小説風味(失恋葛藤ドラマなんてどうやったってチマチマと私小説風味になるのに、スタイルばっか先に示したがる)で視聴者と画面内の人物の間にやたら距離をとるあたりも含め、お笑いの距離感なんだと思う。や、実を言えば視聴中は爆笑しっぱなしで、笑うのは真面目な感想を述べてる人たちに失礼か、などと反省してしまうぐらい最後まで笑ってしまった挙句、なんでここまで笑わなければいけないんだろう、と。

 で、たぶん、作り手も見てる側も、これをギャグだと思ってないと想定されるのだが。それはつまり、最初から「僕の彼女はアイドル」なんて痛い設定の痛い恋愛話に心底浸る気分はまるで無く、批評っぽいネタとして提供されるのを批評っぽく味わう向きに作りました、といった「俺たちは判って見てる/作ってる」といった世界なんだろう。で、原作のエロゲからしてそういう方向性に至る道筋はあって、そっち側に解釈するようにエロゲの処女だ浮気だ三角関係だツンデレヤンデレだとゆー路線を選ぶ人たちも世の中には一定数いて。まぁ。そういうふうにしか読めない文脈に生きてるから、という話なので、彼らの人生についてどうこう言っても仕方ないのだが。

 まぁ作り話なんだから無闇に痛いリアクションをアピールしなくても別に構わないのだが、処女厨キモイ俺たちは奴らとは違うつってかくもせせこましく互いの視線に怯えるセカイに向かうのか、という感慨は、彼らの生きてるセカイに寄生する僕しか書かないだろうからわざわざ書く。そうして、僕のようなのがそーゆー批判じみた話を書くことで彼らは団結して仲間意識を保てるのだろうし、僕もまた、そういう共同体意識も生きてくために必要なシステムなんだろうと思うようになった。