モテとか非モテとかいうはなしの「げんしけん」

 男がBLを読まない設定の理由のもうひとつは、ゲイの都市文化的側面だ。基本的にリアルゲイなんざ東京圏にいれば普通にでくわす。僕ですら高校時代ナンパされた。まぁナンパつっても川崎地下街アゼリア新星堂で『八神くんの家庭の事情』イメージアルバムを購入し店を出たところで中年のおっさんに声をかけられ「キミは体格いいねえ、何かスポーツしてるの?」などと太ももを撫でられ(指は股間まできっちりグニグニ到達し)、「ね、お茶でも少し」と言われたところで断って終わり、という程度の話だ。声をかけられたのが後にも先にもこれっきりなのが寂しい話ではあるが、僕みたいな外見でも二十年かそこら都市文化圏でうろついてれば一度くらいはゲイらしき人にナンパされるのである。

げんしけん」は昔ながらの東京という都市文化圏に夢を求めて上京する若者の話だ。「趣都」なんて単語が発明されるとおり、「オタク」や「秋葉原」や「コミケ」は東京という価値が下落していく中で「東京」再発見の糧として見出される。押井守が東京にイメージを託した後の、(そしてリアルに秋葉原でテロ発生というところも含めて)その幻想の後継者として「げんしけん」はオタクなるものを描いた。この「東京」は、もちろん「田舎者」にとっての東京だ。幻想のユートピア東京、その局地的後継としての秋葉原コミケ。夢の世界が地続きの場所にあるという水平方向の想像力は、もちろん現実の東京や現実の人間関係から目を逸らす。舞台は都市の街並みや繁華街から切り離された山の上の大学となり、ゲイは想像力の外に追放され男と女は古典的関係構図によって安定をみせる。

 そうして「げんしけん」では作劇の求めるままに男女を綺麗により分け、男女の仲を進展させずに放置しておく手法による物語遅延でのユートピア維持を図る。まあ一言で言えばラブコメだ。通常のラブコメと違うのは恋愛が主題じゃないことで、つまり「男女がくっついてても、それを画面から外してしまえばそれでよし」という形で「げんしけん」のユートピア性が維持される点だろう。それゆえ、ヤっちゃう直前までの描写がなされる「荻上さんシナリオ」は他の春日部さんや大野さんのそれとは扱いが明らかに違うこと、また漫画からは少し外れるが、アニメ「げんしけん2」で原作者自身の脚本によって大野さんのエチシーンが新たに描かれたこと、それぞれの意味が見えてくる。