ああそうそう

 備忘録用途でリンクしとこうと思ったんだった。

>ともかく、こういう人が監督として存在しているし、いまのところ、「お魚の女の子」の監督と違って、自己表現のために他人の原作や脚本を必要としているようだから、そんな監督との付き合いも、脚本家としては知っておいて損はないと思う。
http://style.fm/as/05_column/shudo162.shtml

>しかし、自分が描きたい確固たるものがあって、それを描くために、原作や脚本を利用する監督もいる。
>監督本人が意識しているかどうかはしらないが、でき上がった作品には、原作や脚本は存在しない。
http://style.fm/as/05_column/shudo163.shtml

 まぁ、何を今さら、の話題だが。ちなみに、首藤氏のゲーム関連のシナリオの話は参考になる。

 スカイクロラが何でつまんないかつったら、まぁ原作のせいもかなりあると思うんだ。読んだことないけど。でもまぁ押井アニメ化つって見に行った原作ファンが怒り出さないていう時点で強度不足がほのみえるじゃん?

 で、原作の強度とか脚本の強度とか、そゆのをバラしてとりあえず「映画」にしてみせる、映画システム製造マッシーン、みたいのが基本的な製作態度だと思うん。だから強度の足りない原作や原作なしだと、押井機械にぶちこんでもバラバラになるだけです、とゆー。

 言い方を変えると、撮影編集原則みたいな仕組みとしての「映画」は好きなんだろうけど、撮りたい女優はいない。イマドキの言い方に直すと「リアル女になんか興味ねえよ」という。ヤマカンのひとも、押井批判しつつ、なんだかんだでそーゆーの仄見えるよね。違いは時代かなぁやっぱ。ヤマカンのひとはさ、すげえあっさりロリ描写の強度へと突っ走れるじゃない。ケメコの2話がつまんなかったんだけどロリ描写だけは相変わらずガチってあたり、ああこのヒトはロリ=映像にしか興味ないヒトだ、究極的に言っちゃうと(もちろんまだそこまで煮詰ってないが)人格とかどーでもいいんだ、みたいな。

 原作の強度に依存しないと作れないとかは、普通にいくらでも転がってるのであげつらっても仕方ないといえばそれまでではあるのだけど。自立しなきゃダメだみたいな思い込みを抱えてたって余程パワフルなヒトかラッキーマンでなきゃ言動が世間と噛み合わなくなってガイキチ扱いでサヨナラするだけだしね。押井流て頭がいい生き方だと思うよ嫌味じゃなく。