[ゲーム]『シンフォニック=レイン』

作品上、good endに分類される6つのシナリオを読みました。それ以外はまだ。
作中、メインヒロインであり中原麻衣演じるところのトルティニタに「アナタハ神ヲ信ジマスカー?」と質問され、それに対して「信じている/信じていない」を回答する選択肢が現れます。僕はいつも「信じている」を選択してトルタを驚かせてしまいます。それは、ひどく単純な動機によるもので、『 My Merry May 』をプレイしたときから僕の態度は完全に決定されてしまっていて、「神様を信じていない」と口にすることに抵抗を感じるようになったからです。
My Merry May 』において、レゥシナリオ、みさおシナリオを担当した人のシナリオで、わざわざ選択肢にして「神様って信じる?」と問い掛けてくるのですから、心情的にも状況的にも僕としてはごく当り前に「信じている」を選ぶしかありません。
 
My Merry May 』を巡っては、いろいろな意見の人がいるのですが、その中でも最右翼、続編として位置付けられている『 My Merry Maybe 』においてその可能性を消去されてしまったかに見える意見にリンクしてみたいと思います。
こばさんの日記の、隠してある部分をどうぞ。
もちろんここで、こばさんの解釈の妥当性や、『 My Merry Maybe 』のシナリオの正当性の話をしているのではありません。ただ、ひとつのスタートからマルチシナリオという形で分岐し合流することのない「シナリオ」の言葉たちが、一体どれほどに「ひとつの整合性のある論理の系」としてまとまりを持ちうるのか。もしくは、多様な手段で提供される、シナリオ文をはじめとした情報の数々を、ひとつの系に整理統合するにあたって、どのような枠組みや前提条件が必要とされているのか。そうしたことについて、マイメリをプレイした人はこばさんの文章を読んで、プレイしていない人は今度再販される『 My Merry May with be 』を購入/プレイし(宣伝)て、ほんの少し立ち止まって考えてみてくれれば、と思います。それはつまり、こばさんが一歩手前で踏みとどまったシナリオ解釈の毒沼に、あえて足を踏み入れろ、という話になるのですが。
 
なお、参考までに、上でリンクしたこばさんがその後に書いたレビューも紹介します。
http://www1.ocn.ne.jp/~hkoba/gmemory/mmmay.html