スクラン

http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/syohyo/234.html

スクールランブル』に取り込まれた「ハーレムアニメ」の長所とは、言ってみれば、空虚な中心としての主人公である。天満が思っている烏丸は、まったく人間的な実質をもたない、人間的な感情を持っていないキャラである。

さあみんな、BSマンガ夜話めぞん一刻」の回はビデオに録画しているかい?
我らが竹熊健太郎先生は「めぞん一刻」について「死者(音無惣一郎)が中心となっている人間関係」をわざわざ図解付きで説明してくれているねっ!
「空虚な中心によって維持される恋愛モラトリアム空間」としては両者は同質であると考え、

烏丸=音無惣一郎
天満=音無響子
播磨=五代裕作

と見る図式は、そんなに間違ってるとも思えない。すると沢近は六本木朱美の位置付けと見ることもそう遠いこじつけではない。BSマンガ夜話でも「朱美って五代のことが好きだよね」「響子さんより朱美のほうがかわいい」といった声があったし。一刻館がモラトリアム空間であることは大塚英志がツッコミ入れ済で、さらにはその<めぞん>批評を「サルまん」でパロディにされたりもしている。
めぞん一刻」と「スクールランブル」の違いは何かといえば、何よりまずフォーマットの差である。短く寸切りにされてギャグ(とコメディの中間?)として提出されるエピソード。この細かい寸切りが恋愛関係の深化を妨げる役割を果たしていて、だからこそ「恋愛関係の成就=モラトリアム空間の崩壊」が回避されているというのは「スクールランブル」を読む上で誰もが知っている読解文法だ。そして、だからこそ寸切りであるはずの文法を外されて前の週のネタが引っ張られていることに、恋愛事情が進行してしまうことに読者は激しく反応し、そのオチが恋愛の進行から遠ざけられることに安堵する。ストーリーだけ追いかけると1話読みきりタイプのラブコメと同類に見えるが、実際にはこの寸切りによって一般的なラブコメとは異なる物語単位で構成されていることが「定型から外れている=恋愛物語の進行を妨げモラトリアム空間を維持する」ことに大きく貢献している。そしてモラトリアム空間としては「あずまんが大王」がスクランの直接の元ネタであることは言うまでもないよな。「天満(あずまんが)+播磨(マガジン)」なんだから。播磨が女の子にストレートに惚れ、殴り合いをし、個人の技術と才能で社会的成功(漫画家)を目指すキャラクターであるってのは、男の子が週刊マガジン的な男子の欲望を維持したまま「あずまんが」的世界に参加するって意味合いであるのはスタート地点で理解されている。ならば、天満と播磨のカップル成立は男の子サイドからは回避されなければならない。ここにおいて理解されるのは、「ハーレムアニメ」なるものは女の子を直接志向するのではなく、むしろ散在し収束しない人間関係によって維持される空間そのものを志向しているという点だろう。
 
…おいといて。天満かわいいよ天満。