パックの納豆はカット野菜と混ぜ混ぜすべきと気づいた

パック納豆の食べ方問題。

小鉢に盛るのはネバネバの器が増える。ご飯に直接かけるのは他のおかず、付け合せ(ちょっとした佃煮や漬物など)がご飯とコラボ出来ない。パックから直接食うのはプラ容器を間違えて箸で突き破りそう。

そして地味に難しい、付属のタレが多いので味が濃くなりがち問題。

サラダに納豆かければいいんじゃね? と気付き一気に解決した気がする。納豆の旨味やタレの味がサラダ野菜と組み合わせるとちょうどいい。サラダドレッシングも不要になる。

検索すると納豆サラダでレシピも色々あった。

サラダに混ぜ込むと見た目がいまいちなのがやや問題。

刻みノリでも乗っけるべきか…

奥橋 睦「最果てのパラディン」

コミックス気がつくと出てるが相変わらず書店で微妙に探しにくいぐらいの並び。買い支えんといかん。

漫画家さん戦闘シーン書くの苦手なんだろうなーというのは割りと最初から読む人みんな思ってるだろう、一方で気づけばそのへんも克服せんとする迫力が絵から伝わってきて、しばしば説得力のある絵にうおすげーとなったりして、マンガは面白いなと。

実際、死者と生者の関係をアンデッドという存在を介して書くの難しい。マンガの中の生者はマンガである以上はキャラクターとして記号を取り混ぜて一定のコードで描かないといけない(そうしないと別のコマの同一人物を同一人物だと認識させることができない)。しかし、そこに損傷した肉体をうまく取り込むのは難しい。崩れて人間の形を失った顔なんてホントに難しい。顔は視覚から情報を取り込んで識別する際に真っ先に見出して、顔から逆算して人間の身体を見出し、人間とそれ以外の情報を見分けて全体を識別してくための礎石なので、そこが人間と人間以外が混ざってしまうのは基礎が曖昧でグラグラしてる状態。読みにくさを取り込んでしまうことになる。リアルな描写ならいいかというと、リアルさを求めて絵の情報量が多すぎても視認しにくく、逆に人間の顔や、手足のわかる形の人間の輪郭などを手がかりにしないと取っつきづらくなり本末転倒。人間の形をして動いてるのに人間でない、アンデットなる枠組みは誰がやっても絵にしづらく、ましてアンデットとの親しさと遠さ、生理的嫌悪感とそれを超える親愛を、ギャグにならず宗教性まで見据えて同時に描かなきゃいけない本作のような題材で、じゃあどんな大物漫画家なら上手く作れるのかと想像するに、誰がやっても面倒だなと。山岸凉子でならなんとか? けどファンタジーバトルまでこなすとなると怪物を質量あるように描かないといけないわけで…ギレルモ・デル・トロなら現代的な映像技術を使いこなしながら課題クリアできるかなあ。

ちょっとまとめようがない話になったが、マンガ面白いです

 

中村カンコ「うちのメイドがウザすぎる!」(アクションコミックス)

コミックス10巻で完結。

アニメの出来がめっさ良くて沼倉愛美キャラベストぐらい好きなのだが原作も最終巻まで笑える内容で継続、良かった。

ロリに対する世間の風当たり的にギャグ作りづらくなってないかなと余計な心配もあったが、ロリとギャグは本来は相性いいのである。なぜならマンガのロリってつまり記号性の高い、抽象的身体だから。というか、劇画ではない、記号性の高い絵柄に性的意味を見出す運動を指してロリコンという語を当てて取り上げた経緯的にも、ロリという概念には抽象へのダイレクトな感性を常に含んでる。それを現実の児童のリアルな身体や生態で覆う形式が表面的に支配的になったんで話がややこしくなって現在に至るが、ロリキャラの構成要素の重要度としては、より記号度の高いほうが求められてるのは現在でも変わっていない。要するに、おそ松さんの六つ子の基本キャラデザに骨格や筋肉、内蔵を求められてないのと、ロリキャラは同じ位置づけにある。つうかミッキーマウスの等身を指してロリコンと呼ぶかという話だ。

身体のみならず、精神面でも、幼い、つまりオブラートに包まずダイレクトな物言いをしてもいいのでギャグに便利なのがロリキャラだ。「ママー、あのお兄さん変なことしてるー」「しっ、見ちゃいけません」な。最近一番わかりやすいのがチコちゃんの造形、あれがつまりロリキャラのギャグ適性の典型例だ。そんでチコちゃんみたいなクソガキにカウンター食らわしてやりたいという批評行為の営為として、昨今ジャンルとして定着した感のあるメスガキ概念があるわけだが、本コミックのミーシャもまさにメスガキの先駆とも言える良キャラで、メスガキにカウンター入れる系の王道の一作だったと思う。

 

「絵が古い」はマンガにおいてはあるんじゃないかなという話

マンガの話をするとき、絵の話やストーリーの話になりがちではある。最近だと絵やストーリーの他に構図やコマ構成みたいな話が加わる。けど、あまり話題にならないが、実際にマンガの構成要素として非常に割合が多いのが、文字だったりする。

マンガは字を読まないと読んだことにはならない。絵をパッパッと見たら読了とはならない。そこが絵画と違うところで、絵画は絵の中に書き込まれた字を読まなかったからといって「お前は絵をちゃんと見てない」と非難されることはない。

だのに、字の話はみんな無視する。活字、フォントだから透明であるかのように扱い、字について語らず、字によって紡がれる台詞やストーリーに一足飛びにいってしまう。

日本のマンガはオノマトペが重要だと語る論者はいるものの、オノマトペがどう重要なのかあんまし語られない。というか結局は「重要だよね」と確認だけして、絵やストーリー、あと構図の話に戻る。

いや、マンガの、紙の半分を占拠してるのは字だろ。

字がないマンガもあるにはあるが少数派だ。マンガは絵と字が幾重にも組み合わさったものだ。字があることで流れが生じ、絵があることで広がりを得、繋がりとレイアウトをものにしていく。字がなければマンガにならない。なんのために吹き出しがあるのかといえば文字のためにあるのだ。吹き出し以外にも、ページの上にも下にも脇にもコマの隙間にも文字が溢れてる。

台詞とかモノローグとかオノマトペという「文字の内容」に行く前に、そこに文字があるのだ。

字があることが重要なのはわかったと思う。では字ってなんだというと、つまり記号があるってことだ。

ここで「絵だって記号の塊だ」みたいなことを言ってまぜっかえす人もいるが、普通、絵は「わーホンモノみたい」とか「わー似てるねー」とかいう見方をするもので、「わー記号だねー」とは言わない。

一方、字はみんな記号だと知ってるし記号として使う。そこにある記号と記号の意味の接続に「わーこれは似てるねー」がなくても問題なく繋いで読み取ることが皆ができる。「あ」という字に「わーホンモノみたい」とは言わない。つまり記号としての性質が露出してる。「絵だって記号の塊だ」でなんか言った気になる奴はそこの違いがあることを無視してるだけだ。

字は記号だ。つまりマンガは絵という「記号性が隠れてるもの」と字という「記号性が露わなもの」が並んでるのが、字のない絵と全然違うとこだと言ってしまえる。

さてマンガは絵と記号が並んでるものだと分かった。そうすると、もう少し踏み込んだことが言える。ここで「オノマトペの重要性」というお題が使える。

オノマトペは記号だが、装飾されている。装飾されることで絵の側に引っ張られている。つまり絵と記号の中間要素ということになる。

マンガは「絵と記号と、絵と記号の中間要素が並んでいる」というふうになった。

そうすると次に「ってーことは、絵だけど記号の側に引っ張られてる要素もあるんじゃね?」と想像できる。そこで探してみると、いっぱいある。有名なのだと浮き出る血管がわかりやすい。顔の表情、感情表現に関しては「わー似てるねー」「わーホンモノみたいー」みたいな部分より記号だとわかってて記号として受け取る度が高いものが多い。そっからさらにハイコンテクストに記号と絵が幾重にも織り込まれてく。

マンガは、絵と記号があり、絵に引っ張られる記号や記号に引っ張られる絵がある、と言える。

みんながマンガについて、絵というとき、実際は絵のことだけ言っていることは、あまりない。なぜならマンガの中では絵は記号と混ざっていて、しばしば記号を含む領域まで語ってたりする。ここでいう記号は文字ぐらい記号性が露わにされてる記号のことで、絵画の側で回収されないぐらいに「これは…記号ですね…」ってなってる記号だ。

さて、そういう記号というのは、読解文脈がごっそりとくっついている。

絵の絵画性は2000年経過しようが地球の表と裏で20000km離れてようが絵だ。人間としての視覚器官が機能してれば「わー似てるー」が発動する。江戸時代の日本人は西洋絵画を見て「うわすげー人間の骨とか内臓ってこうなってるじゃんそっくりー」ってなった。

一方、記号はそうはいかない。文脈から切り離されてたら理解できない。文字は勉強しないと読めない。アメコミの英語を、俺は読めない。絵と記号は違うのだ。

つまりマンガは記号をごそっと取り込んでいて、しかも絵と記号が混ざり合ってるので、「読めない」が発生する。「英語読めない」とか「明治時代のマンガの崩し字が読めない」とか「漢字読めない」とかもあるが、それと同じような「読めない」が、絵と記号の中間領域でしばしば発生する。

だが、現代においてマンガの絵を語るとき「絵に記号混ざってる」とは言わない。文字が透明化されてしまってて、記号がそこにあることを語れないので、絵とストーリー、みたいな言い方しかできないのだ。

でも実際にはマンガの絵のなかには、記号に引っ張られた絵というのが相当な領域ある。そういう部分は文脈、というか学習依存だ。ということは、「勉強してないので読めない絵」が発生する可能性がある。一定割合は絵なので「わー似てるー」で読めるが、一定割合はよくわからないことになる。

つまり、それが「絵が古い」じゃないかという話だ。実際は絵が古いのではなく、織り込まれた記号が古いのだが、マンガ論がそのへんを全然フォローできないせいで記号が古いと言えないできてしまったので、絵が古いという言い方になり、それが「絵を否定された…!」という齟齬になってんじゃないかなと思った。

英雄王、武を極めるため転生す(アニメ)

誰にも勧められないが好きその2。

好きな理由だが、なんか色々と割り切りが良すぎて無闇に動かしてるところと作画省略徹底してるとこが分かりやす過ぎだったり、セリフの繋ぎが酷いところがひたすら酷いのに一方で世界観の説明に時間を全く割かなかったりと、なんか妙に意識の高さが伺えつつ、しかし絵面も話も9割酷いのは変わらない、しかし声優が捨てがたい、いやしかし酷い、と宙吊りにされて最後の方はよくわからんが笑いが止まらなくなったから。

誰にも勧められないにも程がある。

しかしキャラクターの筋は通ってるし作ってる側は全然捨ててないので、やっぱ良いのだよな。真面目さとおふざけが渾然一体となってて、その混ざり具合が低予算アニメならではの絵面の酷さまで含めての渾然一体感になってるのが、他には得られないやみつき要素と言える、のか?

こういう受け止め方してるのを実感すると、ああつまみ食い消費者の俺もとうとうジャンルハマりを見つけたのか、みたいな感慨がわく。

ゆいにしおEDもとても良い。

えかきびと「偽聖女クソオブザイヤー」(MFコミックス)

えかきびとの人がコミカライズ担当。前にもなんかのコミカライズやってた記憶があるんだけど忘れた。

話はさておき、というかまあ色々とさておき絵が見たかったので見れて満足。前のコミカライズよりこなれてる気もする(よく覚えてない)。

誰かに勧められる気は全然しないが俺が好きだからまあいいか、というのが昨今増えててそのうちの一つ。

インボイス制度の問題の本質としての、エブ・エブ

たとえばインボイス制度について考えるとき、たとえば東京都による社会福祉団体への補助事業について考えるとき、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」が米アカデミー賞受賞までたどり着き、今現在、映画館で上映していることに注意を向けるべきだと思う。

偶然だが、これらはどれも「現代社会に生きる人と税金の関係」についての話で、現在進行形で語られつつある米欧中心経済の終焉、自由主義経済が直面する危機についての話だ。

見てない人のために念のために確認すると、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」は個人事業主と思われる主人公エブリンが確定申告と向き合う話である。

次々と発生する日々の家事に、コインランドリー経営で発生する雑務、さらには老親の介護に子供との家庭内不和と、終わりの見えない忙しさの中、エブリンは確定申告のために経費の控除を巡り国税の監察官と税務署で対決する。経費が認められなければ差し押さえを受け生活が崩壊するかもしれないピンチのなか、エブリンは自己と向き合い、家族と向き合い、監察官とも向き合う。その途中でマルチバースでカンフーするというのが映画のあらすじだ。

なぜマルチバースなのか。

マルチバース、昔でいうとパラレルワールド。「もしかしたら今の境遇、今の生活とは違う自分がいる世界があるかもしれない」という設定は、元を辿れば「過去から未来まで起こる出来事は既に決まっている」という運命決定の立場と、「未来のことは決まっていない」というアンチ決定論との間の、折衷的な妥協提案から生まれている。なんでそんな折衷妥協が必要だったかというと、原因と結果がセットになっている前提で成立してる学問的思考の立ち位置をなんとかして守りたかったから、という話になる。

世の中の出来事に因果なんかねーよと全部ぶった切ってしまったら「学問なんかやるだけ無駄だよ」になり、無事、トランプ政権とその支持者たちが発生する。いやいや、世の中には何もかもを決定づけるほどではないけど程々に因果関係が見出されることもあるし、一方で因果関係が成り立たないこともたくさんあって、そこの無数に無限にある隙間は地道に草の根作業でチマチマ埋めてくしかないんだよ、という知的活動という名のチマチマ作業を続けていくために、なんか拠り所が欲しくて出てきた妥協折衷案のひとつが、「あのとき、愛の告白を断っていたら巡り巡って私は世界的名女優になっていたかも」という、行為と結果の因果関係を肯定しつつ、しかし決定論でもない、マルチバース設定を呼び込んだ。

マルチバース設定が採用されることで、可能性が実体化する。

コインランドリー経営にカラオケセットがなぜ必要なのか。それはカラオケセットを導入することで、エブリンは可能性を手に入れるからだ。個人事業主にとって、事業者にとって、仕事することは生活することと重なっている。パブリックとプライベートはそうそう分けられるものではない。クリーニングの在庫は生活空間に持ち込まれ、コインランドリーの店内は春節のお祝いの飾りつけで彩られ、時間も空間も、生活も仕事も、混然一体となっているのが当たり前だ。個人の可能性の具現化であるカラオケセットは仕事の延長として購入され、経費として申請される。可能性を将来において実体化するのは経済行為として正当である。

税務署は決定論的立場をとる。コインランドリーは過去、現在、未来においてコインランドリーであり、その仕事にカラオケセットは必要ない。経費として認められない。仕事は仕事、趣味は趣味。税務署は可能性を認めない。お金は、記録と共にあるからだ。記録は既に決定づけられており、将来においても記述され続ける。

経済とお金は別物だ。経済は生活であり、お金は記録である。経済は将来であり、お金は過去である。経済は可能性であり、お金は確定した運命である。マルチバースのなか経済とお金は循環し反発し絡み合う。

マルチバースは最終的に確定申告が通ることでひとつの収束に向かう。しかしそのためにエブリンは国税の監察官と語り合い、ストーリーを提示し、愛を告白し、見つめ合わなければならない。つながることのない手と手を互いに差し伸べ、互いの身を相手に差し出すことで、決定論とアンチ決定論はとりあえずの調停を得る。とりあえず、ほんの1年、結論が先送りにされただけの調停であっても。

なぜカンフーなのか。

カンフー映画は、それまでアクションでなかったものをアクションに取り込む驚きを映画に導入した。握りこぶしや刃物や銃などの、それまでの暴力や武器の表象であったものの外側すべてをアクションに取り込んだ。ヌンチャクやトンファーなど見たこともない珍しい異国の武器からはじまり、椅子に机に皿にそのへんの布に、生活空間のありとあらゆるものが武器になった。戦闘のための体さばきはボクシングやレスリングを大きく逸脱し、動物の物まねや酔っ払いのフラつく千鳥足までもが戦闘アクションとして取り込まれた。カンフーを通して、人間のありとあらゆる行動、ありとあらゆる身の回りの道具がアクションの内に取り込まれてきた映画の系譜。その文脈を介することで、マルチバースに拡散したありとあらゆるエブリンを一つの肉体の延長に繋いだ。

しかし、そこには実は大きな危険が伴っていると映画では語られる。マルチバースの無限の自分と連結することで精神の器が壊れてしまう。カンフーは肉体を延長することはできても、その延長に心が耐えられない。肉体の延長の結果壊れてしまったエブリンの娘ジョイはジョブとなり、マルチバース世界をベーグルの穴の虚無へ落とそうと行動する。エブリンはジョブに対抗するため身体拡張のリスクを受け入れ、精神崩壊を免れつつカンフーマスターの能力を得る。

おそらくエブリンがADHDであり可能性を内包したまま全てに意識が向け続けている状態、つまり何物でもない状態のまま宙づりで分裂を生き続けてきたのに対し、ジョイは移民2世、LGBTといったリベラリズム浸透後のアイデンティティ決定権を行使しなければならない世代であることが二人の分岐点となっている。ジョイは自由主義の権利拡張の世代としてありとあらゆる可能性の自己に接続は可能であっても、自己が何者であるかを決定しなければならない世代の呪縛がゆえに、何物でもあり続ける意識の状態に耐えられず、ベーグルの穴の虚無へ落ちなければならなかった。

ベーグルの穴はいわゆる存在するが存在しない表象である。ドーナツの穴でないのはジョイがエブリンに食べ過ぎを注意されたのを気にしていたためで、ドーナツでなくベーグルであったことで、最後、二人が繋がりを回復する可能性がわずかに残ったと考えられる。マルチバースにより無限の可能性が実体化してしまったのを、存在するが存在しないベーグルの穴によって清算マルチバースを崩壊、解体させようとした。

ジョイ(JOY)というLGBT・移民二世の表象を背負ったものがジョブ(JOB)に堕ちたのは無限の可能性を手にしつつ自己決定を行使しなければならなかったため、という設定はアメリカ経済の、というより自由主義経済の行き詰まりを示唆している。可能性が可能性のままであり続けることでかろうじて分裂しまくりの行動をとりながら自我を保ち続けるエブリンは言うまでもなく今までの自由主義経済圏の経済活動そのものだが、娘は自身が既に可能性の実体化する場にまで辿り着いてしまったために、そのふるまいは耐えがたい。

自由主義によって得た自己決定権と多様性は、およそ一個の統合人格の管理しうるものではない。インボイス制度の問題の本質はなによりそこにある。自由主義経済の、流動性を最大限に尊重し可能性を追い求める行動にエブリンは沿っているが、税務署の監察官はついていけない。なぜコインランドリー経営にカラオケセットが必要なのか。映画の中では1週間の延長期間が認められることで大団円が図られるが、日本の税務署にはそんな余裕など残されていない。

日本の官庁には、民間を管理、監視する余力はもはや失われていることが、労基署や年金事務所、そして税務署の窓口に実際に行くとひしひしと感じ取れる。米国の国税の監察官がマルチバースの無限の可能性を否定するのは、それを追いかける力がなくなっているからだ。日本の役所もまた、もともと実務を行う体力に乏しかったが、近年、ますますその能力は失われつつある。にもかかわらず、自分たち自身の力では実行不可能な法規を定め、漠然とした官民の寄り合い、もたれあいに依存し、ボランティアにお願いすることで「なにかやったこと」にしてしまう。かといって実務をこなす体力がないのだから、それしか手がないのだろうが。

そもそも小規模事業者の消費税納税がなぜ見逃されていたかといえば、そんな細かいところまで追いかける労力をかけられなかったからだし、それによって得られる税金もわずかだったからだ。それを今になって網掛けしたとして、どこまで追いかけられるのか。電子帳簿保存法で税務署の椅子に座ったまま監査できるようにしたかったのだろうが、実際に行われる経済活動、すなわち生活や仕事の実態が、メールやPC、スマホを常に脇に置きながらやれるものかどうか(それが効率的な身体の動きなのかどうか)、考えなかったのだろうか。

事業者が制度をまともに守れなくても、それを逐一指導する力は税務署には残されていない。となれば、正直に納税する事業者間の正規の経済圏と、まともに納税しない非正規の経済圏の分裂を深めていくことになる可能性がおそらく高い。後者を摘発する能力が税務署に残されてないからだ。税負担の公平性を追求しようと制度設計をするのはいいが、実務レベルで自分では出来もしない法規を増やせば増やすほど、税負担の不公平が加速度的に広がっていく。

そんな、管理能力の失われた官庁が、自身ではできもしないことを民に業務を丸投げすることで、税負担の不公平性が広がっていく懸念が高まるというのが、今回のインボイス制度の問題の本質である。