ファンタジーもので気になるのはアイテムより思想や心理だよな、という話

山本弘氏が、なんか書いた。

http://hirorin.otaden.jp/e429912.html

ジャガイモがどうこう、については、自分は元々の話であろう魔王勇者が話題になったときにタラタラと書いて、大体出尽くした感じであり、それ以上に突っ込んだ話が出てこないなーという感想。
当時、自分が書いたやつ。このへんの話題は古来からやり尽くして、カビが生えた話なので別に読まなくていい。
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20100513#1273759028
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20100514#1273762927
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20100522#1274537143

で、ツッコミを入れたい人たちからするとジャガイモってのはネタにしやすいのだが、実際にファンタジーで問題になるのは、オブジェクトじゃなくて登場人物の思考とか思想、心理のほうになる。今回、その話をツッコミ入れておきたい。
 

  • その1:フィクションで「心の動き」がクローズアップされるのは、どういう時か。

例えば「仕事を取るか、家族を取るか」というふうに登場人物が悩むときは、悩むだけの困難がそこにあるわけだ。家族を選んで今の仕事を首になったら再就職が難しくて年収が減るとか。
つまり「悩む」には「現実にあると想像される困難」が必要だが、この「困難」は、時と場合でずいぶんと様変わりする。さっきの例なら、転職が簡単で年収も保障されてたら、悩まず家族を選んでお終いとなる。悩まなくていいので、お話で大きく取り上げる必要もない。
時代が変わればフィクション上の困難も変わる。身分制度が厳格な百年前なら王侯貴族と庶民の恋愛は大変なハードルだが、現代日本で皇室と一般庶民の間で恋愛結婚するのに「家をとるか、恋人をとるか」という悩みは生じない。
 

  • その2:ではファンタジー世界の登場人物たちは、いったい、何が「悩みの原因」なのか。

 これは、それこそ本来は「わからない」。ファンタジー世界がどういう物理法則なのか、どういう社会制度なのか。これらは全て作者の語りに委ねられてるのだが、逆に言えば、語られてない範囲については、読者の側で、どうとでも想像を付け足すことが可能だ。
 
たとえば作者が「厳格な身分制度」とサラッと一言で書いたとしても、現実社会において身分制度に様々な抜け道があったように、読者は様々な抜け道を空想できる。なんせファンタジー世界だから何だってアリ。「19世紀初期のオーストリア」みたいに書かれたら、そこから社会状況も、当時の人々の思想や常識なども、ある程度までは限定されるが、ファンタジーでは何の制約もない。
 
すると、どうなるか。「登場人物の悩み」に、エンターテイメント性がなくなっちゃうのである。作者がいくら「この世界では貴族と庶民の恋愛はどれほど恐ろしいことか」などと語っても、「その悩みって、こうすれば解決するんじゃないのかな?」という抜け道が、いくらでも、読者の側で想像できちゃう。
庶民の側を格上げしたければ魔法を使うでも養子縁組でもどうとでもなるし、それらを全て塞いだとしても貴族の側が「貴族をやめて別天地で幸せに優雅に暮らそう」と宣言したらおしまい。作家は、その貴族が所属する社会から離脱するリスクをきちんと説明しないといけないが、ファンタジー世界の広大な空白を埋め尽くすのは大変だ。トールキン先生なみにガチガチに説明を尽くさないとならないわけだが、それはつまり、読者に「この設定を全部覚えろ」という話で、敷居は一気に高くなる。
奈須きのこ先生のような作風の作家は一人や二人ならともかく、5人も10人も同じように設定を羅列してくとなると、ついていける読者はそう多くはない。どっかで「そろそろ、このタイプは奈須きのこ先生だけ読んでればいいや」と諦めるだろう。ラノベ評論を月に10冊も20冊もネットに上げられるようなヘビーユーザーばかりが読者ではない。5巻も10巻も続くシリーズ物なら、ファンタジー世界の描写の総量も積みあがってくるので登場人物の複雑な心理や思想も描けようが、そこまでシリーズが続くだけの人気を積み上げないと難しい、のである。
 

  • その3:そもそもファンタジーは複雑な心理の動きを追っかけるジャンルじゃない

言うまでもないが、現実世界を舞台に登場人物の心理の動きを描写するほうが、とっかかりも多く、心理描写の説得力も増し、余計な説明に字数を費やさない分だけ字数当たりの展開も早い。わざわざファンタジーにする必要はない。だが一方で、ファンタジーやSFは、現実での様々な問題に対し「現実と異なる物理法則」や「現実と異なる社会」というアナザーを見せることは出来る。
たとえば「身分制の厳格な現実」に対し「誰もが平等なユートピア世界を描く」とか。
たとえば「男尊女卑の現実」に対し「女尊男卑のマゾの楽園を描く」とか。
 
判りやすいのは、ドラえもんの秘密道具だ。「空が飛べない」と悩むのではなく、空飛ぶ道具を出して実際に空を飛んで終わり。そこでは登場人物の悩みは非常にシンプルで解決可能なものとして描かれる。「男なのにスネ夫を愛してしまった、どうすればいいんだ」と延々と悩む必要はない。「ドラえもん、僕は男同士なのにスネ夫のことが好きなんだ、助けておくれよう」とお願いすれば、もしもボックスでも何でも使って悩みは解消される。(男同士の恋愛が蔑視されなくなってもスネ夫に振られる、たぐいのオチはあるだろうが)
 
ファンタジーてのは、もともとが、深く悩まなくて済む、行動ありき、空想のオブジェクトありき、のものである。悩む余地がない、悩みようがない、と言ってもいい。にも関わらず、ファンタジーな設定で、うだうだと思想や悩みを転がす話をアニメやゲームでよく見かけてしまう、というほうが、「無駄な心理描写で話が面白くなくなるリスクが高い」という意味で、ジャガイモ話よりも切実な問題なのである。
 

  • その4:ところで山本弘氏のファンタジー作品ではどうか

本題である。二十数年前、山本弘氏は、グループSNEというゲーム業界チームで執筆活動をしており、そこで「ソードワールドRPG」というTRPGのリプレイを書いていた。その中の1章で、山本氏は「ファンタジー世界に<思想>を持ち込む」ということをやっている。

 
具体的にどういうことをやったかというと、「孤児のモンスターを育てている孤児院」を舞台に、冒険者であるプレイヤーに「ファンタジー世界のモンスターは無条件に退治すべきか否か」という思考をさせる、というものだ。
 
このリプレイは、様々な意味で問題をはらんでいる。現代日本の常識的な思想を前提にして、ファンタジー世界の中の行動について倫理的判断を求め、それに基づいて「悩むというロールプレイをしろ」と指示している。
いや、いまどき、現代日本だって「野生のクマやシカは人間に生息場所を奪われて可哀そうだから」などと言ったら「現実に野生生物に襲われるリスクも知らずに部外者が好き勝手なことを言うな」とネットで矢のように批判が飛んでくるだろう。まして、ファンタジー世界で、モンスターと人間がどういう環境下で生きているかなど、判断の材料は殆ど何もないに等しい。
判断材料となる情報が圧倒的に不足しているのに、「悩んでるロールプレイをしろ」と言われて、プレイヤーに何が可能なのだろうか。リプレイが誌上公開されることが判ってる以上、プレイヤーにできるのは「一般受けする展開」としてのモンスターとの融和ということになるのだろう。(リプレイはそういう展開になっている)
 
さて。上記のそれは、実に現代日本的な行動規範に無批判的に沿った行動であり、思想であり、登場人物の描写である、といえるのではないか。

現代日本異世界ファンタジーの多くは(もちろん例外もあるが)、「異世界」じゃなく、「なじみの世界」を描いてる
http://hirorin.otaden.jp/e429912.html

と述べている山本弘氏だが、二十数年前、異世界ファンタジーに、何の説明もなく「なじみの世界」の展開に、プレイヤーを半強制的に誘導している。TRPGのプレイヤーというのは小説の読者のように「つまらない」と本を途中で閉じることが許されていない。できるのはゲームマスターに抗議してプレイを中断し不毛な論争に突入することぐらいだが、雑誌上に公開されるとなれば、そうした行為も封じられている。その意味ではネット上の投稿小説より「罪が重い」という言い方もできるだろうし、ジャガイモ警察よりもずっと自分の思想を相手に強要している、という言い方もできるだろう。(「と学会」についても絡んでくる話だが、今回は割愛)
 

  • その5:山本弘氏はどうすべきだったのか。

ソードワールドのリプレイは、まあ、流石に二十数年前であり、山本弘氏の若気の至りであった、という言い方で済ませることができるかもしれない(僕の見立てでは山本氏は当時から基本的に変わってないとは思うが)。
 
だが今回、ジャガイモ警察を話を引き合いにしてファンタジーの描写について意見を述べるなら、海外小説の議論を引っ張ってくるのもよいが、まず、ご自身の過去作品を議論の題材に提供し、作者はどういう意図をもって現代日本の「なじみの世界」を導入したのかを詳しく解説するほうが、より議論が深まったのではないだろうか。