「All You Need Is Kill」原作小説も含めネタバレあり。

正直、ここまで出来が良いと思っていなくて驚きました。今どきハリウッド娯楽大作をガンガン流す地上波TV局もそうそうありませんが、そのへんおして地上波の洋画劇場で3年に一度ぐらいのペースで放映して、十分にレギュラー視聴率が見込めるレベル。娯楽大作として見てあえてケチつけるとしたら、クライマックス手前が若干の構成の都合のユルさがあるのと、字幕が戸田奈津子なのが微妙かなあ、程度。
まさか「日本発・ハリウッド制作」の看板で、こんな真っ当かつ一般受けする優良作が作られるとは、予想だにしなかった。
 
映画のHPは以下。
http://wwws.warnerbros.co.jp/edgeoftomorrow/
予告は以下。

 
個人的に良かったのはパワードスーツにまとわりつくボトムズ感ですね。ノルマンディー上陸をモチーフにした舞台背景で空挺強襲上陸作戦に投入され、返り討ちにあって「主人公含めて機動兵士がゴロゴロ死にまくり」を何度も繰り返すので、機動兵士の使い捨て感が半端ない。作中で弾切れやバッテリ切れが何度も描かれ、しょうがないので敵襲の恐れがあってもスーツ乗り捨てるっきゃない、兵士も使い捨てなら、頼みの綱のはずのハイテク・スーツも使い捨て。
そんなシチュなので、今どきのパワードスーツのトレンドであり「登場人物の顔を隠さないためのデザイン」でもあろうところの、人体部分を全然隠さない(身体は敵の攻撃を弾くには心もとない防弾チョッキで覆うだけ・「どうせガードなんて役に立たないから」と言わんばかりに素っ裸のケツ丸出しで機動スーツを直接装着する兵士も描かれたり)外部骨格スーツのデザインが、攻撃力過多・防御ゼロ・火力大量投入で使い捨て、の思想に基づいて運用してます、て見えて仕方ない。
しかも、もう一つ、作中のストーリーとも絡んでくるんですけども。
冒頭、「そもそも機動歩兵なんか送り込まずに無人兵器や核弾頭をガンガン打ち込めばいいじゃないか」というアメリカンなツッコミを避けるための言い訳が実にサラッと用意されるんだけど、その言い訳が何かというと「新兵器(パワードスーツ)の投入が大成功をおさめた」という報道発表でして。その大成功ってのが、「パワードスーツ着た女性兵士が一人で巨大な戦果を挙げた! これなら勝つる!」*1……と、いう。
(……その大戦果って、もしkしなくても某ヒロイン・リタさんがループで達成した大戦果じゃね? ってことは、作中大量投入されてるパワードスーツって、誤認識と戦意維持の都合の名のもとに効力を過大評価されて無茶な投入の仕方されてんじゃね? 某リタさんの「戦場のビッチ」の二つ名って、もしかして畏敬の念を込めて遠ざけたい意味合いの呼び名であると同時に、「こんな棺桶直行なクソスーツで大活躍しやがって、手前のおかげで俺たちまでとばっちり喰らっていい迷惑だ」的なニュアンスだったりするんじゃね?)
とか想像しながら見ると、もうね、ボトムズ感が凄いのね。元々、原作のリタさんもレッドショルダーのニュアンスが混ざってんのかな、と思うし。
そう、原作といえば。
今回、映画を見てから、出来のよさに驚いて、原作小説を読んだんですが。
そしたら原作リスペクト度合いも大変しっかりしていて、けっして、「名ばかり原作」じゃなかったのも、良い驚きでした。
当り前ですが、シナリオ展開は全く違う。それは小説と映画のメディアの違いであり、日本のラノベとハリウッドの違いであり、その相違に基づいて翻案したものです。原作については別途書こうと思いますが、原作は一人称の語りなので、主人公がどう思ったか、どう感じたか、どう考えたか、という内面が軸で綴られる。映画でそれをそのままコピーしたら、モッサリとした日本アニメの脚本にしかならない。一人で独白してる内容は、登場人物同士の会話の掛け合いの中で滲ませるように。主人公の内面の変化は、主人公と会話相手の、関係の変化に反映させることで描写する。同じことを別の切り口で見せなければいけないから、当然ながら、エピソードの見た目の形は変えざるをえない。見た目が似てるからといってマンガやビジュアルノベルの脚本をアニメにそのまま引き写したら別物にしかならない。だから「原作に忠実に作る」というのは、一度、解体しつくして、解釈して、再構成しないとならない。
で。
原作との一番大きい違いは主人公がハリウッド流に中年男性に変更されてることなんだけども、この「実戦経験なしの広報担当」て、原作でリタにまとわりついてる広報担当がたぶんモデルで。
そもそも、原作のケイジは初陣の新兵という設定だけど、それ以上に兵士になる前の描写が殆どない、背景が描かれないキャラクターで、ヒロインのリタが多少強引に描写をねじこむ形で生まれ育ちが描かれるのと対照的なのです。んでね。原作の、ゲーム文化圏としての素性が最も色濃く出てるのが、この主人公ケイジの無色透明さ(&ヒロイン・リタのギャルゲー感あふれる無茶な過去回想シーン挿入)なのだけど、これを一般的な物語に翻案するには、ケイジをしっかりした背景を持ったキャラクターにしないといけない。(だから、原作の評価軸として、このゲーム小説としての素性からくるゲームプレイヤー感に擦り合わせてくる味わいを基本とする場合、映画はその要素をバッサリ切り捨てているので「原作クラッシュ」の一語に尽きると思います。が、このゲームプレイヤーとしての当事者感覚、てのは多分に議論の余地のあるものでもあり、ここでは書きませんが、扱いに注意を要するものでもあります)
では、どうするか、といったときに、原作の物語としての軸がリタにあることをきちんと認識して、原作上でリタにまとわりつきながら、リタのキャラクターから最も遠い、アンチテーゼ的な要素を持つキャラクターとしての広報担当を、ケイジの背景に据えてきた。このへん、やっぱりハリウッドは脚本を立ち上げる基本的な素力がしっかりしてるよな、と。
そうやって基本骨格を原作から立ち上げて、しかも、ケイジとリタの間の印象的なエピソードは、全部、原作エピソードを踏まえた上で翻案してる。この翻案が上手いのは、原作でのケイジとリタのそれを少しだけ距離を置いて、愛しむようにして描く点で。映画のリタは、言わば原作のリタとケイジを合わせた造形で、というのは原作のケイジはギャルゲーの主人公よろしく無色透明で、リタというヒロインの物語に踏み込む存在なわけでね。これを映画は、フィルムとフィルムの間から言い落とされた、一つ前のループで確かに存在したリタとケイジの遣り取り(それは原作のリタとケイジのそれでもある)を、そこに踏み込むことが出来ないがゆえにこそ大事に愛しむ現在の時点のケイジ(そしてそれは原作のリタにまとわりつく広報担当の姿にもかぶる)、という、いささかややこしい関係に落とし込んで描く。やはりゲームの映画化として、メタ的な視線を映画構成の中に織り込み原作ゲーム世界を映画シナリオの中に落とし込むことに成功した「サイレントヒル」同様、繰り返す時間という設定を生かして細かくカットの襞の中に原作への示唆を織り込み、ラストの二人の遣り取りに垣間見せるあたり、本作の真骨頂といえるのではないでしょうか。

*1:戸田奈津子訳のさらに俺意訳だから間違ってる可能性大