樺薫「ぐいぐいジョーはもういない」講談社BOX

 や。面白かった。ふっつーに。あとなんだ、薫さんやっぱ真っ当に頭いいんだなあ、とか今更。

 いいもの読まさせていただきました。

 そんだけ。

 その他。高校生活3年間、とゆーあたりについて。

ギャルゲつったら、そらまあ高校3年間じゃなくて他に何があるんだ、となる。卒業にしても、ときメモにしても、3年間をフルに使う。が、エロゲというと意外とそうも行かなかったり、した。同級生とか1シーズン短期決戦だし。3年間かけてじっくりと恋愛関係が深まっていって3年目のラストにエチシーンというと、「夏少女」とかゆーのもあったが、あれだって夏だけ切り取って、切り取った期間については、なぜか、毎日をダラダラ「日常」っぽく過ごしたりしてた。

 こういう比較すると、そもそもゲームとしてのジャンルが違うじゃんってなるんだけども、んじゃ高校生活3年間という舞台って、一体どうやって扱うのさっていうと、これが不思議とギャルゲとエロゲの分水嶺のように、ギャルゲのための道具立てとして機能するもんだったりする。

 たぶんそれは、セックス、とゆー生臭く突っ込んだイベントを、どうやってゲームの中に織り込むか、みたいな話と絡む気がする。いっそRPGや戦術シミュレーションだったら、ゲーム部分とデートイベントは全く別々の構成パーツが組み合わさってるものとして、別枠理解してくれるだろう。が、なんとなく日々の生活の流れの中にデートイベントが織り込まれてるようなギャルゲの中にさらにセックスをつっこんで安定するのかしら、てな話だ。

 んで。高校生活3年間というのがギャルゲ的であるなら、高校生活3年間という意味合いと密接に結びついた「卒業」というイベントも、わりかしギャルゲ的だ。つーかエロゲなら卒業式より前に各種イベントにかこつけてセックスしてるだろう。卒業のタイミングで告白じゃ遅すぎる。じゃあ、エロゲで卒業式について描くとしたら、いったいどうなるんだ? とゆー話だが、これが、エロゲとしての義務である男女の色恋沙汰についての話から少しばかり離れて、「向こう側」へ足を踏み入れるタイミング、だったりする。たとえば、「この青空に約束を…」では、卒業式は、夢を語る瞬間だ。さらに一歩踏み込んで「さくらむすび」では、フィクションから現実への浸食が語られたりもする。大人しく物語りを語られるところに収まる気はない。というより、語られることを拒否する稚気を守るためにこそ、卒業式は使われる。高校生活のモラトリアムから社会人生活への窓口である卒業というセレモニーは、逆に、モラトリアムの内部に温存された初々しい幼さを現実社会へ密輸する窓口として使われることになる。つまり、ちっとも「卒業」じゃないのだ。

 と、ゆーことで、ぐいぐいジョーの作中の「卒業」は、「卒業らしい卒業」なのか、「卒業らしからぬ卒業」なのか。そんな。