キャラクターを蕩尽するという行為

 毎度言っているが僕にとって谷口悟朗とゆー人はリヴァイアスの谷口でもなければコードギアスの谷口でもなく、もちろんプラネテスの悟朗でもガンソードの悟朗でもなく、舞-HiME谷口悟朗である。「サンライズ初の萌えアニメ」というキャッチコピーを背負い「萌え」なるものを悟郎ちゃんらしく突き放して腑分けして出した結論が舞-HiMEに反映され、つまり、各ヒロインはご都合主義的に悲劇的な死を迎え、もしくは「最愛の人」を失って精神的死を迎え、かつ、ご都合主義的に死者が復活して終わる。
 よく「キャラクターを消費する」というが、作中でキャラクターの劇的状況下の死を提示することで「キャラクター自身の物語」を綺麗に裁断しパッケージング、消化しやすいサイズにキャラクターの人生を切り分けておき、さらに、よく判らない理由で奇跡が起きて復活することで「死」というイベントそのものがもたらすインパクトの大きさ、意味を無化してみせる。舞-HiME谷口悟朗が喝破してみせたのは、そこまで含めた「キャラクター自身の物語」のパッケージングと消費のスタイルこそが、つまり「萌え」である、というものだった。
 言われてしまえば実にそのとおりだが、それを受け入れるには時間がかかる。物語におけるキャラクターの死そのものについて、「泣いて感動するために」などと揶揄してみせつつも、「それが物語の消化に一番手切れがいいから」とは中々言いづらい。しかし実際にエロゲのブームが一貫して推し進めてきたのは<物語>を各キャラクターそれぞれ一人づつに分離解体しキャラクターの修飾部分としてパッケージングする、一連の工程だった。そのために最も効率よかったのが<死>によって「キャラクターの物語」を区切る手法である、というのがKanonを経てSenseOffで確認された形式だったわけで、その後の「萌え」を巡る状況というのは、その結果としてそれ自体何の意味もなく量産されるキャラクターの死と、その死からの何の脈絡も意味もない再生についての、永遠に正解にいたることのない意味づけと配置についての苦慮であった、と言っておけば概観してしまえる。ループする時間にしたところで「死と再生」についての破綻のない説明であることが第一義であったのだし、吸血鬼だろうとゾンビだろうと、死を最初から取り込んでいるという意味で同様である。それが「十七分割」のように最初に来るか、最後にゴールして死ぬかの違いでしかない。