つづき

http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20100513#1273759028 から。

 作中のメイドに関する描写を確認すると、

>彼女は、私から見ると年上なのだが、
>なんだか『メイド道』とやらに目覚めてしまってな」

>「殿方における騎士道と似たようなものですわ」

>「主人のどのような求めにも応える。
> それが私の『メイド道』ですわ」
http://maouyusya2828.web.fc2.com/matome01.html

 明らかにhttp://d.hatena.ne.jp/imaki/20060416だのhttp://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060507だのの、メイド像を継承している。

 そうした現代日本オタク文化圏でもって成立した概念であるようなメイド像が、作中の「農奴解放」だの「啓蒙」だの「宗教的枠組みからの開放」だの「丘の向こうのなんちゃら」を肯定する、ほぼ唯一の枠組みとなっている。姉妹がメイド姉妹に役割を変えるくだりのメイド長の言動など、

>結局のところこの主人公は主の命令なんて聞きやしません。自分ルールでしか動かない。そのルールには「主への忠誠」や「メイドとしての誇り」が含まれているだけです。

 という上リンク先の解説そのままだ。

 もちろん、ここで指摘したいのは、そうした武士道ならぬメイド道に生きるメイドという役割・職業の両義性だ。主人を信仰し主人に服従し主人に仕えながら、その自主性・独立不羈の精神はいささかたりとも近代精神にもとるところがない超越性を備えている。オタク文化圏で培われてきたメイドさん服従と自立の成熟した均衡点を請け負う。役割の固定化された作品世界でおいてさえ「姉妹」が「メイド姉妹」へとその役割を変化させたように、人は誰しもメイドになれる。いや作中に従うならメイドになることはニンゲンになることと同義だ。http://d.hatena.ne.jp/hajic/20100508/p1の指摘にしたところで、ではなぜ、作中人物らは信仰を基盤としないままに大胆に信念に従って動き、信仰の総本山と対決することが可能なのか? と問えば、それはメイドがご主人様に忠誠を誓うことで自身のあり方を肯定する、その態度によって裏づけされているからなのだ。

 こうした国産のメイド概念はオタクのセクシュアリティと切り離して考えることはできない。いくら百合メイドとイギリス探偵を戦わせたところでメイドというコピーでオタク向け販路に乗せる現実問題と切り離したことにならないのは言うまでもない。

 ならば今回、gdgdと腐った規範談義よりもはるかに深刻に問われなければならないのは、メイドさんとご主人さまの関係におけるご主人様とは何者なのか、なのである。