会誌を読んでる人の義務とゆーことで

 リンクしちゃったので某DiGRA会誌掲載の井上氏による「チュートリアリズムの成立」絡み。

>ゲームの世界が2Dで描かれていた頃って、ゲームの映像って、ゲームのやり方、ゲームの見え方とがすごく密接に結びついていた時期ってあったじゃない。ヘックスが描かれていたらシミュレーションゲームだし、俯瞰視点で四人ぐらいが列を組んでたらRPGだし、世界の見え方そのもの、世界の描かれ方そのものが、世界への接し方を描写してたよね。
>最近のゲームって、ハイエンドの最先端ゲームってぜんぶきれいな3Dの世界が描かれているじゃない。するとさー、どの映像みても区別がつかない、っつーか、ゲームシステムがどうなってるのかなーみたいな想像力をほとんど刺激しないんだよねー。
http://www.critiqueofgames.net/2009/11/ico.html

 映像が想像力を喚起し「ゲームのやり方」まで導いてくれるのとチュートリアリズムはおそらく隣り合っているけれど、上ではその逆の例として、映像だけでは「やり方」まで喚起されない場合があると指摘している。

 んで会誌、一定の映像の形式と結びついて「チュートリアリズム」が成立した可能性はないかと想像したのですな。記事でチュートリアリズム成立の具体例として挙げられているスーパーマリオゼビウス、この二つのいずれも一方向に半ば強制的に進んでスクロールしていくけど、じゃ、この「スクロール」の形式の流れや意味づけはどういったとこにあるのか。景色が流れていくというだけなら、おそらくエレメカ時代のレーシングゲームその他があって、おそらく幻灯機のような見世物にまで源流を遡れると思うのだけども、じゃ、それらとスーマリゼビウスのスクロールはどう違うのか。
 ゼビウスについては「自機が画面中心や画面下に固定されておらず画面内を自由に動ける」ことと「宇宙空間じゃなく地形がスクロールして流れること」の掛け合わせ、つまり二重の軸の交点であること。スーマリでは言うまでもなく重力と「画面左半分までは自由に行き来できる」ことの交点。

 将棋や囲碁バックギャモンのようなゲーム盤だと見るだけでプレイ方法までは喚起されない。盤面が入れかわるスクロールはチュートリアル導入と連続してる。変化する盤面に一定の読解ルールを導入する「重力」に、カーソルとしての自機が「そのつどのゲーム盤」を自由に動くことで地形を読解するプロセス。

 続く。